花―Flower―
昔、高校の授業で聞いたことがある。古文の世界では単に『花』と書いた場合、大抵は桜を意味するそうだ。
いかに日本人が桜を愛してきたか、この事実だけで十分説明に足りるだろう。
人々は街のいたるところに桜を植え、花見の季節を、春を待ちわびているのだ。
ひらりひらり
窓から入ってきたのだろうか。桜の花びらが春風に乗って俺の鼻をかすめる。ふんわりといい匂いがする。
テレビの奥でレポーターがなにやら地元の話題を騒ぎ立てている。
『私たちは、現在、問題の○○市に来ております。』○○市といえばここの事だ。全国ネットでこの街が映るとはめずらしい。
春のうららかな昼下がり、だが、今の俺にとってはそれどころではない
俺はといえば、騒ぎつづけているテレビを背に、相変わらず押入れの前で呆然と立ち尽くしていた。その押入れからはひっくひっくとしゃくりあげてすすり泣く女の子の声がしている。
『ご覧下さい、あの桜並木を!』テレビの声をバックに、おそるおそる俺は押入れに声をかけてみた。
「もしもし?あのさ…その…いい加減出てきてくれないかな、君」
「いやです」即答。しかも強い拒絶のニュアンスがある。
しかし、俺としてもここで引き下がるわけには行かない。だってここは俺の部屋だ。なのに一体どうして…。
そうして俺は何度目かの問いを押入れの中の彼女に問い掛ける。
「君は…誰なんだ?」
ことの経緯を説明しようとしたところで、どうにも難しい。
俺は午後の講義が休講になったので、仕方なく下宿のマンションの一室に帰ってきた。で、部屋の鍵を開けて中に入り、テレビをつけて一服…というところで、突如押入れの中から女性のすすり泣きが聞こえてきた。…とまあ、それだけなのだ。
さっきから話し掛けているものの、若い女性は押入れの中で泣きつづけるばかり。返ってくるのも「いやです!」、「ひどいです!」、「もう知りません!」とそれはもう頑なだ。
俺も、さすがに耐えかねて、一度強引に押入れの戸をこじ開けようとしたのだが、びくともしない。中でつっかえ棒でもしているのだろうか。
声をかけてもダメ、彼女を外に出す事も叶わないとなると、俺ももう打つ手が無い。
俺は途方にくれながらも、天岩戸の昔話を思い出していた。岩戸に閉じこもっていた天照大神を何とか外に出そうとする話。あの状況に似ている。
ああ、そうだ。誤解の無いよう、弁解しておくが、俺は女性から恨みを買うような覚えは全く無い。この女の子の声だって全く聞き覚えが無いのだ。
『皆さん、ご覧になれるでしょうか。桜が…桜の並木が…』相変わらずテレビからはリポーターの甲高い声が響いている。
…誰なのだろうか、この女の子は。
「ン…ちょっと待てよ…」俺は重大な見落としに気づいた。
「大体君は…どこから入ってきたんだ?」考えてみればおかしな事だ。俺は確かに戸締りを確認して家を出たはずだ。現に俺は鍵を使って部屋に入り、窓をあけた。つまり中から錠がかかっていたのだ。…ということはなんだ?この女の子は合鍵を持っていたということか?そんなばかな、鍵は先月ドアが壊れた時に取り替えたばかりだ。もちろんもう一つ大家に預けてあるものがあるが、女の子が俺の部屋を訪ねてきたからってかってに鍵を貸すことは無いだろう。
さすがに俺も怖くなってきた。この女の子は俺の知らないうちに合鍵を作ったというのだろうか。それって…
「も、もしかしてストーカー…とか?」ああ、そうかもしれない。彼女は前々から俺を付け狙っていたやつで、ついにこうして直接的な攻撃を仕掛けてきたのだ。
「…酷いです」小さく弱々しい声と共に押入れの中からはずっとすすり泣く声が漏れ聞こえている。
ふぅ 俺は深くため息をつく。
しかし…なんだかストーカー説はしっくりこない気もする。今までにストーカーの影を感じた事なんてこれっぽっちもなかったし。 よくよく考えてみれば、自分はストーカーどころか、そういった恋愛には本当縁の無い人間の気がする。自分で言っていて悲しくなるが。ただ、泣きじゃくる彼女は、男としてやはりかわいそうな…というか、罪悪感を感じる。
『お分かりになりますか?この木までは満開に桜が咲いていますよね?』テレビの声、うるさいから消してしまいたいが、ちょっとそれどころじゃない。
でも、やはりこの部屋に入るには合鍵を使うしかない。鍵を取り替えてから今まで、果たして他人にスペアキーを作ることなんて出来ただろうか。俺は鍵を外出する時は常に持ち歩いているわけだし。…ん?そういやぁ一週間前…大学のやつらと飲み会やって…
「そうか、あの日家に帰ると鍵が無くって…」そう、あの日は前後不覚になるまで酔っ払ってしまった。翌日キーホルダーの名前と電話番号から交番に鍵が届けられてたんだっけ。そのときに誰かが作ったとすれば…。
とすれば、やはりストーカー説も…いや、安易にそれは…などと一人思案に暮れていると、「もしもし、修治さま?」突然押入れの中から呼びかけられた。
『あちら側の桜は全く咲いておりません。つぼみのままです。』しばしの間、テレビの声だけが響く。
「え!?」俺の名は確かに修治。志水修治。ということは…
「やっぱり俺のこと知ってる人なんだね。」
「はい、私、ヒック、あの子から修治さまがどのような方かヒック聞いてきましたから…」しゃくりあげながらもようやくまともに話ができるようになった。彼女はつづける。
「ヒックでも、修治様のしたことは、あんまりですわ。ひどいですわ。ヒック、あの子怪我をして…」
「え…あ…えっと…俺が…もしかして君の友達に怪我をさせちゃったってこと…?」告げられた衝撃の事実。なんてことだろう。
「はい。折れてしまったんですよ。私、悲しくて。いても立ってもいられなくて…だから修治様のお部屋に…。」彼女の声は真剣でとてもうそを言ってるようには思えなかった。
…なるほど、この子は随分と友達思いなのだろう。それに引き換え俺は…
「それは…すまなかった。本当に…俺は君たちにひどい事をしてしまったようだね。でも、本当に申し訳ないんだけど、俺はまだ何の事だか思い出せないんだ。その…教えてもらえないかな?」
「一週間前のことですよ?忘れたなんて言わせません!確かにわたくしはこの目で見ました!」…参った。女の子は本当にご立腹のようだ。どうにも俺には覚えが……
「…いや、一週間前…飲み会でふらふらになった日だ!!」べろんべろんに酔っていたあの日はどうも途中の記憶が途切れ途切れなのだ。何があったとしてもおかしくは無い。
そうなると、とたんに俺は恐ろしくなってきた。酔っていたといっても誰かに怪我をさせてしまったなんて…。
『お分かりになりますか?○○市の××地区から南側はこのように満開の桜が見えますが、北側は1分も咲いておりません!』なおも テレビのこの状況を無視した実況は続いている。
「…本当にすまない。」それしか言いようが無かった。
「本当に反省していますか?」今度は落ち着いた声で返事が返ってきた。
「え…ああ…」
俺は心の中で必死にその日の記憶を探っていた。出来る事なら反省して今すぐにでも謝りたい所だが、どうしても思い出せない。誰と会ったんだ?何をしたんだ?
確かその夜、深夜まで続いた飲み会が解散し、俺はふらふらになりながら確か××地区の通りを歩いていた。酔いを覚まそうと思っていたのだ。
そして…ああ、思いだせない。
『そうそう、一週間まえのことですよ。そのころまでは市内のどの桜もいくらか咲いていたのですがね。急に市の北側半分の桜が全てつぼみに戻ってしまったんですよ。咲いていたものも全てね。』インタビューされてちょっと嬉しそうに近所の人が答えている。
「『桜』か。」テレビのしつこいまでの桜の話題に徐々にその夜の記憶が呼び起こされていく。
長く続く通りにはテレビに映っているように桜が道沿いに植えられていて。春になると有名な花見スポットだった。
一週間前のその夜、既にちらほら桜の木々には白く、淡く紅い花が開き始めていて、外灯に照らされ輝いていた。
それを見て俺は、無性に腹が立った。
そう、俺にとっては鬼門だったのだ、桜は。
例えば忘れもしない幼稚園の頃、可愛がってとても大事にしていたインコが野良猫にかまれて死んだ。その時墓を作ったのは桜の木の下だった。
次に小学生のとき、初恋の子は桜の季節に転校してしまった。思いも告げられずに。
あるいは中学生の時、花見で酔っ払ったドライバーに轢かれた。打ち所が良くて命は助かったが入院。
高校。桜の下、卒業する憧れの先輩に告白して玉砕した。ルックスから性格まで散々こけにされたあの日は今でもトラウマだ。
……一昨年の桜の時期に俺を置いて留学しちまったあいつ。
毎回毎回桜には嫌な思い出が多い。俺はいつしか桜なんて見るのも嫌になっていた。
だから俺は…
「手近な木の枝を無理やり折って…」
『一体どうした事なのでしょうか。桜前線はちょうど○○市××地区を境に北上をやめているのです。』
「桜なんか大嫌いだ、こんな花咲かなければいいのに!って叫んだ…」
…それで俺はどうした?
…誰かに会ったわけじゃないのか…?
『ここより北側の桜はほころんでいたつぼみも再び固く閉じられ…』
「…さくら」そう呟いてみた。
《桜を傷つけないで!!》突然、誰かの声が頭の中に響いた。…そうだ、その時誰かの声を確かに聞いた気がする。
「どうしてあんなことしたのですか!?」押入れからの声。
《どうしてそんなことをするのですか!?》頭に響く声。
…回想と現実が交差する。
「…この声…!」つまり…俺はやっぱり彼女に会っている!?
『一週間以上何の変化も無いのです』
―― 桜 さくら サクラ ――何かひっかかる。
―― 一週間という奇妙な一致。
『専門家にも原因はわからないという異常事態に…』
―― 一週間の桜前線の停滞 ○○市××地区の桜通 折れたサクラ 一週間前の飲み会 一週間前に俺が怪我をさせた 記憶が無い その友人の女の子 【声】 誰も入れないはずの部屋に入っていた………桜 さくら サクラ
俺の中で不ぞろいなパズルのピースがぱちりぱちりとはまっていく。
『桜前線を日本中が待ち望んでいるのです』
そんなことが…いや、もう本当は分かってる。顔なんか知っているはずが無いんだ。そう、彼女は…
「…やっと分かった。…思い出した」
ああ…
「そうだった……確かに俺は君の友人に怪我をさせた。そして君にも会っているんだ」押入れの中に話し掛ける。
「そうです。思い出していただけましたね」透き通るような声。先ほどの泣きじゃくっていた少女のものとは思えないほど大人びた声だった。
「…ああ。…きみの友人に後で謝りに行くと伝えてくれないか?」
「…分かりました。きっとあの子も許してくれるでしょう。」
「あと、この前の発言も取り消す。…ただ嫌な思い出が多くて…見ると思い出しちまうから。だからあんな事言っちゃったんだ。嫌いになろうとしてた。自分の弱さから目をそらしたくて憎もうとしてた」
「はい。」
ついでに思い出した。母の作ってくれた桜餅。小さい頃父といった見事な桜の老木。弟と植えた苗木…今は大きくなった。そして…
ああ、思い出しちまった…あいつと見た桜並木。
…なんだ、悪い思い出ばかりってわけでもないじゃないか。
「…みんな君の来るのを待ってる。出てきて…くれないか?」
沈黙。
「その…俺も咲いてくれないと困るんだ。」――次の次の桜のころには帰ってくるよ…――あの時したあいつとの約束を思い出した。
「本当は、俺も大好きなんだ………桜」
「はい、ありがとうございます。」華やぐような明るい声。その瞬間だった。
ばたんと勢い良く押入れの扉が開け放たれたかと思うと、ぶわっと風が部屋中に渦巻いた。
桜色で目の前が染まる。あまりの事に、それが大量の桜の花びらだとはすぐには分からなかった。
一瞬。一瞬だがそこに桜色の着物を来た長い黒髪の女の子が立っていたように見えた。しかしとても目を開けていられない。風が部屋中を駆け巡る。窓ガラスががたがたとゆれている。
「ありがとう。私たちを嫌わないでいてくれて。」そんな言葉が風の中で聞こえた気がした。
事の開始は突発的で、終了も迅速な事この上ない。
目を開けるとそこには空っぽの押入れだけがあった。彼女の姿はない。
『これで現場からの中継を終わります。』テレビのリポーターがぺこりとお辞儀していた。
そして、部屋中に舞い散る桜の花びら。
「…掃除が大変だ。」一人苦笑した。
翌日の新聞には一面でこう出ていた。
『桜前線遅れを取り戻す!? 専門家も唖然』
《End》