夢想 ムゲン


ああ、朝だ。
目を覚ます。鉛のような重い体を起こす。じっとりと汗ばむ体が気持ち悪い。ずきずきと頭が痛い。
ふと、…何か悪夢を見ていた気がする。それがどんな悪夢だったのか、俺は思い出そうとしたが、内容は全く思い出せなかった。
ただ、悪夢だった事だけははっきりと覚えている。見ていた夢を起きて忘れてしまう事なんて良くある事じゃないか。

母にせかされ、互いに顔を見ることも無く食卓に着く。いつものように朝食を済まし、いつものように制服を着て、いつものように学校へと向かう。何も変わらない日常。
空はどんよりと曇っている。今にも泣き出しそうな空。傘を持って出かける。
空を見ながら「杞憂」と言う言葉を思いだした。古代、杞の国の人は天が落ちてくることを憂い、笑われたという故事。しかし、こんなにもどんよりと暗い空を見ているとその憂いもあながち間違いではないのかもしれない。

授業は淡々と続く。俺は授業に集中できずに窓の外ばかりを眺めている。既に雨は降り始め、誰もいないグラウンドを醜悪な沼へと変えていた。
表情の無いクラスの奴らはただそのために存在する機械のようにノートを取りつづけている。
徐々に、ざあざあという雨音が大きくなっていく…。甲高い教師の声も、ペンを走らせる音さえもかき消し俺は雨音に飲み込まれていく。
今この場から抜け出したい。消えてしまいたい。俺にできるのはただ切に願うことだけだった。
…だから俺は夢想する。例えば今、此処で、この三階の窓を蹴破るというのはどうだろう。椅子を窓にぶん投げて、ガシャンと大きな音を立て椅子はガラスを撒き散らしながら雨のグラウンドへ落下していく。ノートを取っていたクラスの奴らも手を止め、一体何事かと奇異の視線を向ける。
そして、俺は走り高跳びの要領で地面を背に窓の外に飛び込むのだ。空を仰ぎ、笑みを浮かべて。
さぞかし気持ちいい事だろう。一瞬の無重力の後、俺の体は再び重力に引き寄せられ、風を切って雨と共に落下する。ぬかるんだグラウンドに頭から激突する。ぐしゃり、と首だか頭蓋だかの骨がつぶれる音を聞き、壊れたかえるの玩具のように無様に大の字になって空を見上げるのだ。
空は相変わらずどす黒い雲に覆われ、大粒の雨は容赦なく俺の顔に降り注ぐ。
ああ、これは雨なのだろうか。雨というものは大抵降る姿しか見たことが無いから、雨が自分に『向かってくる』という光景は、随分と滑稽だ。
制服が泥水と流れ出した血を吸い上げ、少しずつ少しずつ侵食していく。じつに不快だ。腕や足はおかしな方向に折れ曲がり、頭部からは止めどなく血があふれている。横に目を向ければ泥水に血がにじんで紅い紅いマーブル模様を描いている。
指一本として動かせない。いや、俺は動かしたくないのかもしれない。このまま生きたままに朽ちてしまうのもいいんじゃないかとも思えてくる
「ハハハ…ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

ただ可笑しくて笑う。狂ったように。笑顔しか知らない人形のように。


ああ、可笑しいね、本当にオカシイ。
俺は確かに此処にいる。コレは夢想のはずだったなのに。現実ではないはずなのに。俺はようやく気づいた。戻れないのだ、現実に。
…この痛みも、流れる血も、泥水の不快さも、雨の冷たさも、…全てが現実。
俺は考える。一体、どこまでが現実で、どこまでが夢想だったのか……
はたして、教室にいた俺は現実なのか?
いや、自分が現実と思い込んでいたものこそ、夢想であったのか?
そしてコレすらも夢想なのか。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ…」
オカシイ オカシイ オカシイ
不意に覚える奇妙な既視感(デジャビュ)。
俺は前にもこんな事があった気がしていた。そう、コレは初めてじゃない。何度も、何度も繰り返してきたのだ。言うなれば合わせ鏡。無限に連なる像。抜け出せない夢幻。

……無間地獄。
 
雨は降り続く。
疲れた。…俺は…眠る事にした。コレが現実であっても、夢であっても変わりはないじゃないか。抜け出す事は出来ないのだ。
なら眠ろうじゃないか、全てを忘れて。寝て起きたらそれがきっと現実なのだ。


ああ、朝だ。
目を覚ます。じっとりと汗ばむ体が気持ち悪い。ずきずきと頭が痛い。
ふと、…何か悪夢を見ていた気がする。それがどんな悪夢だったのか、俺は思い出そうとしたが………

Repeat again...