デンデラ野
暗い夏の夜道を歩きながら、男は自問する。
はて、俺は何をしているのだろうか。
夜のあぜ道は、提灯の明かりでは心もとなく、道の凹凸に足を取られ、男は何度もつんのめった。
左手の提灯をかざしながら、右手に杖を持って闇を突き、男は黙々と歩む。
汗があごを伝い滴り落ちる。
風はなく、どんよりとした生暖かい空気が澱んでいる。
疲労が男の体を鉛のように重くし、ひどくのどが渇いている。
なぜ、こんなにも疲れているのだろう。
体が重く、思うように歩けない。
無言のまま歩く男は、自分以外の息遣いが混じるのに気づく。
肩に掛かっている背負い紐が肌に食い込んでいる。
背には何やら木の硬い感触がある。
どうやら、息遣いは背に負っている荷のもののようだ。
ああ、なんだ。俺は人を背負っているのだ。
そいつは私と背中合わせにだらりと四肢を投げ出し、担がれているようである。
人を負いながら、細いあぜ道を歩いている。
道理で重い。
道理で疲れる。
そこにきて、男はまた疑問に囚われる。
では、この背に負っている者は誰なのだ。
考えてみても、男の頭は霞が掛かったように、何も思い出せない。
だから、男は問うてみた。
――なあ、あんたは誰だ。俺は何であんたを背負っているんだ。
すると背から、喉から搾り出された、しわがれた声が聞こえてきた。
年老いた男の声である。
――わしはただの年寄りさあ。お前はこれからわしを野に捨てに行くのさ。
……ああ、そうだ。思い出した。こいつは村の老人だ。
ようやく、脳裏に掛かっていたもやが晴れてくる。
男はこのじいさんを一里先の野っ原に捨てに行くところだった。
じいさんといっても、男の祖父ではない。
男の祖父は何年か前に流行り病で死んだ。
布団の上で死ねただけ、この老人よりいくらかましだったろう。
このじいさんのように、長く生き過ぎるのも考え物だ。
里の暮らしは楽ではない、働けなくなった老人は齢六十になると、食い扶持を減らすために捨てられる。
月明かりのある夜、里のはずれ、川向こうの何もない野っ原に年老いた者を置いてくるのだ。
男は里の者の中でも、若く、力が強かったため、もう何度か老翁、老婆を野に置いて来た。
その者たちだって、若いときに自分の父や母を野に捨てて生きてきたのだ、だから誰一人文句を言わない。
ただ、無言で、俺に背負われる。そして野に降ろされた後、一礼し、夜の闇に消えていく。
そのあとどうなるかは、知らない。
里の人間は年寄りを捨てる時以外には、めったにその野原に近づかないからだ。
野原への道は川を渡り、岩場歩き、林の斜面を抜けなければならない。年寄りの足ではまず戻って来れない。
川を膝まで浸かって渡る。川の流れはそんなに強いわけではないが、荷を背負っているので、何度か流れに足を取られそうになった。
――月が本当に綺麗だ。
背中の老人は、からからと、とのん気に笑っている。
――出来れば、この月を見ながら一杯やりたかった。
自分が捨てられに行くというのに、まるで行楽に来ているようだ。
――俺は、あんたを背負ってるせいで、地面しか眺められないよ。
男はもっと老人に毒づいてやりたかったが、まだ道程は遠く、罵る力ももったいなく思った。
――なあに、じきに、眺められるさ。そうさな、あっという間だ。
何がおかしいのか、そう言ってまた、からからと笑う。
岩場に何度も滑りそうになりながら、男は歩き続ける。
老人は星を見、月を見、木々を見、その度に男に話して聞かせたが、男にとっては、かえって、迷惑であった。
自分ばかりが疲れているのも理由のひとつであったが、老人がやたらとはしゃいでいるのが男を苛立たせていた。
――なあ、じいさん。あんたはなにがそんなに楽しいってんだ。俺は今あんたを捨てに行くんだ。もう里には戻れないんだ。気でも触れたか。
男は、斜面をゆっくりと、足場を確かめながら下る。
――ははは、わしもな、むかし若いころには、おまえさんのように老いた里の者たちを背負って野に向かったもんだ。だから、わしも最後は野に行くんだと思ってたよ。わかってたことだ。だから、怖くないのさ。それに……
――それに?
――それに、望みも叶った。悔いはない。
――望み?何があんたの望みだったんだ?
――さあ、なんだろうな。野についたら、教えてやるよ
――ふん、老人の望みなんか、もったいぶるような事でもないだろう。
男はさらに歩みを進める。夏草を掻き分け、ぬかるみを跨ぎ、ひと際拓けた場所に出る。
そこが、彼らの目的の場所だった。
背の低い草が一面に青々と茂り、月明かりに濡れて輝いていた。
男は黙ったまま、背負い紐をはずし、老人を降ろした。老人も黙り込んだままだった。
老人はよろけながら、立ち上がる。
男と老人は向かい合う形となった。
提灯と月の明かりに照らされ、老人の顔があらわになる。
刻まれた皺に年齢を感じたが、その顔に男は何とはなしに、妙な感情が湧き上がったが、ついに、その心持ちの正体は分からず終いだった。
――ご苦労だったな。ありがとう、若いの。
老人は皺のある顔を、もっと皺だらけにしながら笑った。
礼を言われたところで、男には返す言葉がなかった。だから代わりに尋ねた。
――教えてくれよ、じいさん。あんたの望みって何だったんだ。
――約束だったな。……わしはな、若いとき、ここへ里の年寄りを背負ってやってくるときに、いつも思っていたんだ。俺が背負ったやつらが見た月を、俺も見てみたいとな。
男は少し驚いた。男もまた、里の年寄りを背負って野に行くとき、同じことを思っていたからである。背負いながら夜道を歩こうとすると、どうしても足元を見て歩かなければならない。いつも、背負う年寄りたちは黙り込んだまま、男に背負われて行った。彼らはいったい、何を見たんだろうか。
――だから、俺が里で用なしになっちまったら……そしたら、俺は俺に背負って野に行きたいたいと、そう願ったのさ。それに、最後に他人に迷惑掛けて送られるのもしゃくだったしな。だから、願いが叶ってよかった。……じゃあな。
そう言うと、老人は野の奥へと歩いていく。
急に、月が雲に隠れ、あたりが真っ暗になった。
老人の後ろ姿は闇に紛れて見えなくなる。
――何言ってんだじいさん。あんた……いったい……
そこで、男ははたと気づく。
男は老人の名前がわからなかったのだ。
顔は確かに、見覚えがある。
だから里の人間のはずだ。でも考えれば考えるほどに、名前が出てこない。
誰だ。
わからない。わからない。
疲労が男の体を包み、脳裏にまた霞が掛かる。
意識がぼんやりとしてしまい、何も考えられない。
月がゆっくりとまた、雲を抜け姿を現し。
老人の姿はもうどこにもない。
男は、もう、老人の顔も声も思い出せなかった。
そうして、ふと、男は自問する。
ここは、どこだ……
自分がいつも年寄りを捨てにくる野原にいることに気づく。
どうして、俺はここに立っているのだろうか。
わからない。わからない。
何もわからず、男は月明かりの野にただ立ち尽くすのだった。
(END)
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