黄昏時




日が沈んだ西の空は赤いままに、東の空にはもう夜が迫っている。
世界が夜の闇にゆっくりと飲み込まれていく。
黄昏時は逢魔が刻。
世界の境界がゆらめく一瞬。
夕闇の中では何があっても不思議ではない。

     ◇◆◇

ふと、私は道の途中で立ちくらみを覚えた。
まさに魔にでも逢ったか。
ぶるりと身震いする。貧乏書生では外套も羽織れず、わが身は着古したシャートに薄い着流しといった装いである。秋も深まってきたこの時期、夕刻は殊さらに冷える。
そんなみすぼらしい私を見て、にゃあと鳴く者が居る。
もちろん猫である。
長屋のそばに置かれた水桶の上に丸まっていた三毛猫は、私の姿を嗤うように、ひとつあくびをし、私の顔を見ている。
不思議と私を怖がろうともせず、近づいても逃げなかったが、触れようとするとひょいと私の腕をかいくぐり、地面へと着地した。
三毛猫は私を見てまたにゃあと鳴き、路地の奥へ走り去る。
私はそれを呆然と見送っていたが、また我に返り小さくため息をつく。
そして、街灯もまだ普及しきれていない宵闇迫る路地で、私は途方にくれるのだった。
少々羽目をはずしすぎたか。なじみの古書店にふらりと寄ったはいいが、店主の長話に付き合わされてこのような時刻になってしまった。
まったく、あの男は古書店の主にしては弁が立ちすぎる。
人と話をしたいのならば、古書店など開くものではないだろう。
しかも、話の内容は取るに足らぬ世間話や噂ばかり。
近所の酒屋で派手な夫婦喧嘩があって亭主が追い出されただの、佐伯のお屋敷の娘さんが病気で伏せているだの、あげくに斜向かいのうちの犬が財布を銜えて帰ってきただのどうでもいい話ばかりだった。
私は主人の禿頭を思い出しながら、再び家路を急ぐため歩き出す。
あたりの人影は絶え、私の安い下駄の音だけが漆喰の土塀に反響している。
この付近もだいぶ栄えてきたと思っていたが、それは駅や街道の周りばかりなのだろう、街道から一筋奥へ入れば、まだまだ小汚い長屋や古めかしい屋敷ばかりが並んでいる。
ひっそりと静まり返った路地は余計にうら寂しく、私の焦燥感を余計にあおる。
日が沈むまでには帰るつもりだったので、当然明かりの類は持っていない。
今はただ、この黄昏の薄明かりが続くうちに自分の粗末な、書物に埋もれた下宿に帰ろうと思うだけである。
「くっ」
急ぎすぎたか、道の凹凸に足を取られ躓く。
くらり、またも眩暈がした。私はなんとか土壁に手をついて傾く体を支え、踏みとどまった。
ああ、どうも、この時刻はいけない。
もう、彼らの時間に足を突っ込んでいるのだ。

     ◇◆◇

私の眼と耳は欠陥品である。
あるはずも無いものが視え、聞こえるはずの無いものが聞こえるのである。
私がまだ田舎にいて、ずいぶん幼かった頃の話であるが、ある夜、母に枕元で白い着物を着た童子たちが走り回るので、うるさくて眠れぬと駄々をこねたことがあった。然し、母も父も、そして兄や妹も、ひどくおかしなものを見るような目で私を見て、気が触れたのかと聞くので、私は随分いやな気分になったことを覚えている。
その時の家の者たちの反応の意味は後々わかった。

どうやら『彼ら』は人には見えないようである、と。

『それら』は道の辻や、寺の墓場などで良く見えた。人の姿をしていればまだ良いほうで、山や川や林には、もっと得体の知れないものがちらほらと見え隠れすることもあった。
姿が見えないにしても、何かぞわぞわとしたものを首筋に感じることがあったが、その場合はたいてい、付近でここ数日で人死にが出たに違いなかった。人が死ぬと彼らはよく集まってくる。死のにおいが好きなのだ。


書生仲間にオカルティズムに傾倒している小倉という輩がいるが、そいつに酒に酔った勢いで視えたものを話して聞かせたことがある。私の話し自体胡散臭いものであったが、それをすんなりと信じた小倉の語ることは、もっと胡散臭いものであった。
小倉に言わせれば、私は何かスピリチュアルなものを感じるのに長けているということになるらしい。
だが、伊東はオカルティズムにはまりすぎるあまり、饅頭がのどに詰まっても、彼が言うことには、スピリチュアルのせいとなってしまうため、最近では書生連中にも呆れられているようなので、まるで信用はならないが。

視えることは私にとってごく日常のことであったが、両親と兄にはすこぶる気味悪がれ、視えたものを語ると父は怒り、時に手を上げることもあったので、私も次第にいちいち父の周りにいる『彼ら』については話さなくなった。
(父には昔から陰鬱な顔をした『彼ら』常にまとわりついていた。)
数日前に死んだ、二軒隣のじいさんと話をして、じいさんしか知らなかったへそくりの在り処を残ったばあさんに教えてやったことがあった。私としてはずいぶん善いことをしたと思っていたのだが、それを聞きつけた両親は私を随分折檻し、1日土蔵から出してもらえなかった。これには私もずいぶん反省した。
だが、一日くらい土蔵に閉じ込められ、それでも私がけろりとしているように見えた(私は十分に反省したつもりだったのだが)らしい両親はいよいよ気味悪がり、それいこう私を疎むようになった。私とて、一日真っ暗な土蔵で一人きりで過ごしていたら、子どもらしく泣き出して許しを請うただろうが、実のところ、土蔵には私だけではなかった、というのが事の真相である。

     ◇◆◇

彼らとの付き合いはよく考えなければならない。
夜の住人たちは気まぐれで気難しい。
昔は――幼い頃は、私も無邪気なものだった。彼らと語り、遊んだこともあった。
だが、今は彼らが疎ましい。
彼らは人ではないので、善悪など無いのだ。
興味があれば人の生活を覗き込み、欲しくなれば何であろうと構わず自分のものにする。そして要らなくなれば捨てる。邪魔ならば排除する。
好きならばそれこそ塵になるまで愛おしむ。
よい意味でも悪い意味でも彼らは純粋だ。
彼らを視ることのできる人間は多くない。私は彼らにとっても奇異なものであるらしく、よく彼らの方から私に接触してきた。
私も分別つかない頃は、風変わりな友人たちと遊びまわったものだが、3度目の神隠しに遭ったとき、私はもう彼らと語ることを辞めた。
あまりに騒ぎが大きくなり、それ以降、ついには、村で私の家が孤立してしまったからだ。
両親は私の帰宅を喜ぶどころか、帰ってこなければよかったと影で周囲に漏らしていたようだ。
私が後に遠く離れた親類に預けられたのも、そう考えれば当然のことのように思う。

いつからだろうか、気付けば、少しずつ彼らの影は薄くなっていった。
強くはっきりと見えたのは子どもの頃だけであり、夜の住人たちを避け、街の暮らしに慣れ、書生を志したころには、徐々に『彼ら』は視えなくなっていった。

でもそれは、彼らがいなくなったということではない、彼らはいつもそこにいる。
そして今でも、夕闇の中にだけ、私は彼らの姿を視るのだ。

     ◇◆◇

からり  ころり  からり  ころり
かつん  こつん  かつん  こつん

私の下駄の音に混じり、高い靴音が聞こえている。
道の両側は、立派な白壁が延々と続いていて先が見えない。
私も少しおかしいと思えてきた。
双方を白壁に囲まれたこの道は、随分な時間を歩いたのにもかかわらず終わりが無い。
この界隈は旧家の邸宅が多いが、いくらなんでも、このように巨大な敷地の屋敷があるわけが無い。
その間も靴音は付かず離れずちゃんとついてきている。

気付いたときにはもう遅い。
おそらく、どれだけ歩こうとも下宿にはたどり着けないだろう。
この夕暮れの薄明かりも西の空にもうすぐ消える。
後ろの者は夜を待っているに違いない。
逃げようとも思わなかった。
既に手遅れ。よく解っている。


現世に生き難き、浮いたこの身。
生きながら幽世に魅入られし、昏きこの身。
もとより、生きながらに死んでようなもの。
覚悟ではなく、諦め。
逃れることも立ち向かうこともできない。
諦めたなりに生きていくと決めたこの身。
私は大きく息をつく。

ころり
私は、歩みを止める。
こつん
靴音も止まる。
ゆっくりと振り返る。
ぼんやりと赤い闇にたたずむ人影。
暗く、その容貌ははっきりとしないが、華奢な体躯と柔らかな曲線から女性とわかる。
私は同時に理解した。この者は『彼ら』の一人である――
――つまり、ヒトが『妖かし』と呼ぶものである、と。
私は何と話し掛けたものかと思案して、結局、今晩はと在り来りの挨拶をした。
人影もまた今晩はと返した。
路地に響くその抑揚の無い声は高く澄んで、幼ささえ感じる。

目が慣れてきたのか、次第に容貌が露わになる。

後ろで高く結ってまとめた長い黒髪。
顔つきはあどけなく、十六七と見受けられる。
白地に薄紅色の紋様の入った振袖に、藤色の袴。高い靴音の正体はブーツか。
その顔は生気が無く、青白い。
見た目は本当にどこにでも居るような娘だ。
身体の正面で重ねられた女の右手の甲に、薄い痣があるのが見えた。
だが、このような街の外れ、人気の無い路では不自然であったし、私の中の何かが女の違和感を伝えていた。


「つかぬ事をお聞きしますが……」
私は少しだけその言葉に躊躇したが、結局尋ねるしかなかった。
「……ヒトでしょうか」
女は目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
容姿がヒトと変わりなかったので、違った反応を期待していたのだが、やはりそうはいかないらしい。
残念ながら、この女はヒトではない。
「それで……」
ここまでは予想の範囲内である。この先はどう転ぶかわからない。
「私にご用でしょうか」
言って、心の内で自嘲する。
この質問には多少、私の期待が入っている。
用があるはずがないのだ。
私は昔ほど頻繁に霊や妖かしが視えるわけではなかったし、それらが視えたとしても、できるだけ関わらないようにしていたのである。
『彼ら』の中に知り合いなど居なかったし、私への用向きなどありようがない。


然し、私はふと、女の顔をみて不思議な心地になった。
この娘、どこかで……。
考える私に対し、娘は小さく、然し確かにこくりと頷いた。
意外であった。この娘も今までに逢った妖かしと同じく、ただ、興味本位で私に近づいてきたのだと考えていた。
「はあ、さて、何の用ですか」
目が合う。暗く吸い込まれそうに深い瞳である。
女は小さく何かをつぶやいた。
「すみません、もう少し大きな声で言ってもらえないでしょうか」
「……さい」
「は」
「助けて下さい」
消え入りそうな声で確かにそう言った。
「はあ、どうしたというのです」
「……」
また女は黙り込んでしまった。
これでは埒があかない。
女の顔を見ながら嘆息した時だった。
女の背後、暗い闇の中から何かがもぞりもぞりと蠢いている。
無表情だった女の顔が恐怖でゆがみ、怯えているのがわかる。
それは何か、黒い塊としか言い様の無いものであった。
見た目はどろりとした、タールのようである。
女の細い肩が震えている。
私は、白い手を取ると、まだ赤い西の空へ駆け出した。
どうすれば良いのかはわからない。ただ、この女はあの黒いものを恐れている。
つかまったらどうなるかは知らない。ただ、女の手を取って逃げることだけが私にできる唯一のことだった。

     ◇◆◇

日はもうすぐ沈む。
辺りは暗く、背後にはもう闇が迫っている。
それでも、私と女は、日の最後の名残を目指して走っている。
まったく、何をしているのだろう……私は人の生など疾うの昔に諦めたのではなかったのか。
ただ、白く冷たい手は、確かに私の手を握り返してくる。
黒い塊はやはり追ってきている。
息が荒くなり、足がもつれ始める。
このままでは、長くは持たない。
手を離してしまえば助かるだろうか。
早く、走るのを辞めてしまえば楽だろう。

けれども、振り返れば、女は不安そうな顔で私を見つめているのだった。
秋の夕暮れというのに、私は汗を掻きながら、どこまでも続く白い塀の道を、どこまでも女と走っていた。

終わりはきた、辺りは夜となる。
あの暗い化け物はすぐ後ろまで迫り、私たちの背を黒い舌で舐め回しているようだった。
私はぐらりと体勢を崩す。左の下駄の鼻緒が切れたのだと気付いたときには、私は地面に臥していた。
からんからんと大きな音を立て、下駄が転がる。
慌てて身を起こすが、既に遅い。
目の前にはもう化け物が鎮座している。
傍らを見れば、女も私に躓き、しゃがみ込んでいた。
黒い化け物はごぶりと音を立てる。醜く喜びの嗚咽を上げたようだ。
もう逃げない獲物にゆっくりと近づく。
ああ、もう、さすがにだめなのだろう。そう思ったときだった。

ぼんやりと、向かう先に灯りが見えたのだ。
それは、白く光る鳥居だった。
突然現れた白い鳥居に化け物はぶるぶると身体を揺らして後ずさりする。
何かは知らぬが、直感的にその鳥居こそが目指す場所と思った。
私はもう一方の下駄を脱ぎ捨てると、女の手を再び握り、ただ、無我夢中でその光に向かい走った。
強く、強く女の手を握りしめ、もがくように鳥居を潜った。

     ◇◆◇

「おい、渡会、渡会」
呼ばれたことに気付き、薄目をあけると、目の前に、お世辞にも綺麗とはいえない浅黒い顔があった。
ちなみに、渡会(わたらい)とは私の姓である。名は幸介(こうすけ)という。
「小倉か」
もう昼だというのに、畳の上で眠っていた私の顔を、小倉は怪訝そうに覗き込んでいた。

……あの後、気付けば、私は独り、元の路地に佇んでいるのだった。
振り返ってみても、女も化け物もなく、鳥居すら見えない。
全身にぐっしょりと汗をかいていたが、既に冷え切っており、私は額にり付いた髪を掻き揚げて、ぶるりと身震いした。
狐狸の類に化かされたかそう思った……。
疲れきった私は、話を聞く気力も無く、そのまま布団も引かず寝てしまったのだが……。

「勝手に部屋に入るな」
「鍵をかけない野郎が悪い」
迂闊だった。鍵すらかけてなかったか。
「相変わらずしけた顔をしていんな」
「それは小倉に言われることではないな……何の用だ」
「用が無きゃ渡会に逢いにきたらだめかよ」
「気色の悪いことを言うな。私は君に構っている余裕は無いのだ。用が無いなら帰れ」
小倉から顔をそむけるように壁に顔を向けた。
「なんだ、寝ていたくせに。ずいぶん今日は機嫌が悪いじゃないか。まあ、聞けよ」
私は小倉の顔を見ることも無く耳だけを傾けた。
「そこの佐伯さんのお屋敷を知っているだろう」
佐伯といえば、士族の家柄で今は役所の高官と聞く家柄である。
昨夜私が通った辺りにあると聞いたが。
「佐伯のご主人には非常にかわいがっているやえかというお嬢さんがいるのだが、渡会も知っているだろう」
「いいや、知らないな」
「何、やえか嬢を知らないというのか、嘆かわしい。君はことに女の話題に疎いからな。まさかとは思ったが。知らないならよく聞け。やえか嬢は……まあ、かわいらしいお嬢さんでね、器量良しで気立てもよく、その上才媛で近所でも評判なのだよ。今は女学校に通っていて、書生のうちでも高嶺の花と呼ばれていて、街でやえか嬢を見かければ。自慢になるぐらいなのだ」
「わかった、わかった。それで、そのやえか嬢がどうしたんだ」
「そう、そのやえか嬢が先週重い風邪に掛かって、なんと、一時は危篤の状態にあったというのだよ。いやあ、俺も悲しかったね。やえか嬢に何かあってはと、ずっと飯も通らなかったよ。」
嘘を吐け、と私は小倉の丸っこい顔を見ながら思った。
「それで、『あった』ということはその情報はもう既に古いわけだな」
「さすがに察しが早いな。結果、大事には至らなかったわけだ。いやあ風邪は万病の元というからね。実に危ないところだったが、やえか嬢は今朝無事に回復したそうだ。佐藤が大家から聞いた話でな、朝一番に知らせてくれたわけだよ」
佐藤も小倉も暇なものである。
「ただ……」
「ただ?」
「峠は越えたと医者は判断したのだが、やえか嬢はまだ意識が戻っていないというのだ。ああ、なんと言うことだ」
「……それで、小倉。どうしてそれを私に」
「へ?」
「どうしてそんな話を私に?」
「どうしてって、君はなにも思わないというのかね」
「いや、そうではない。そのやえか嬢とやらは気の毒に思う。ただ、私には関係の無い話だと思うのだが」
「ばか者、我らがやえか嬢の危機なのだぞ!皆がこの新報を待ちわびているのだ、君のところに寄ったのはとんだ無駄足だったな。まったく、おまえときたら、そんなことでは一生独り者で終わってしまうぞ。」
「余計なお世話だ」
「ふん、俺は次に麻生の下宿へ向かう。じゃあな」
「ああ、小倉、ちょっと待て」
「何だ」
「ひとつ付かぬ事を聞くが、そのやえか嬢は手に……右手の甲に痣があるとか、そんな話はなかったか」

     ◇◆◇

小倉が帰った後で、私はまた仰向けになり、天井を見上げて大きなため息をつく。
昨夜のできごとの意味が、おぼろげながら解った気がした。
彼女が一命を取り留めたというなら、多少なりとも私は嬉しい。然し……
私は起き上がり、部屋の片隅に目を向ける。
今はまた、はっきりと見えている。
だが、小倉にはやはり見えなかったようだ。
付いて来た……いや、この場合“憑いてきた”というべきか。
あの後、残りの帰り道の途中ですぐ、気付いた。
姿は無かったが、靴音は確かについてきていたのだ。
「あー……」
改めて、私は困り果てる。
私が下宿に帰ってくるなり、眠ってしまったからだろうか。いや、お屋敷に住むお嬢さまには、粗末で狭い書生の部屋は、不服であったのかもしれない。
その顔は、私以上に不機嫌そうであった。
小倉の話を反芻してみたが、これといって案は浮かばなかった。
が、多少事情がわかっただけましともいえた。
何より、名前がわかったことが幸いである。
「さて、どうしたものかな……」
私は座布団の上にちょこんと正座している、袴姿の少女に呼びかけた。
「佐伯やえか君……」


つづく

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