紫煙はかく語りき


注:この小説は、某大学をモデルにしていますが、登場する人物、団体、事件は全てフィクションです。

その日、早川理(はやかわあや)を尋ねたのは4コマの講義の終りで4時過ぎのことだった。
 付属図書館、開架閲覧室。生来のへそ曲がりである彼女は、整然と並んだ閲覧席には座らない。
 名著、全集が並んだ書架の奥、図書館の正面入り口を見下ろす窓に面した場所に置かれた、パイプ椅子に折りたためる板を取り付けただけの簡素な席が彼女の定位置だった。
 まっすぐな黒髪を肩に降ろし、白い横顔は射抜くように手に持った冊子に向けられている。ぴんと伸ばされた背筋とブラックジーンズに包まれた脚のラインは一見すると彫刻を思わせたが、確かに細い指がページを繰っていた。
それは一昨日、帰り際に見た彼女の姿と全く変わらないものだったので、俺は彼女が三日間そのままだったんじゃないかと、一瞬、錯誤した。

「や、創田じゃないか」
 早川は、さも今気づいたといった風に、頬に掛かった髪をかき上げた。
「今日は何を読んでいるんだ」
 もう一つの席を早川の側に寄せながら、いつもの決まり文句を言った。
 彼女は手に持った雑誌の表紙をこちらに見せる。見覚えのあるタイトルの雑誌だ。たしか、いつも学生控え室に置いてある学術誌だったか。
「めずらしい。そういうのも読むんだ」
 早川は乱読家で、小説なら純文学から官能小説まで、専門書なら分野を問わず、解るか解らないか関係なく、活字でさえあればいいような奴だが、雑誌を読んでいるのは珍しい。
「聞き捨てならないな。私も学生だ。学術誌くらい読んで当然だろう。そういう様子じゃ君は読んでないのか。嘆かわしい」
嫌味を忘れない彼女の表情は無愛想だが、普段に比べれば穏やかだ。今日は珍しく機嫌がいいようだ。
「俺だって、たまに読むさ。読むものがなければ」 
「そんな所だろうな。……ほら、今月号に、光岡助教授の論文が載っているよ。中々面白い」

「へえ」
この『中々面白い』というのは、早川の寸評の中でもかなり高得点になる。機嫌がいいのはこれが理由だろう。でも、この『面白い』は論文の内容が良いか悪いかじゃなくて、早川にとって読み物として興味をもてたかどうか、の評価だ。
俺は再びページを繰り出した早川を横目に、パイプ椅子に腰を下ろしながら、さて、どうやってこいつにあの事を教えてやろうかと思案していた。

◇◆◇


 俺、創(そう)田元也(だもとや)と早川理とは、友人の間柄だ。たぶん、向こうはそうは思っちゃいないだろうが。
出会いは一年後期の講読演習。誰も組み手のなかった(当時から早川のエキセントリックぶりは有名だった)、彼女と班になってしまって以来の付き合いになる。
今でもゼミの中で早川と会話を普通に交わすことができるのは、俺くらいなので、どうも勘違いされることが多いが、俺と早川は色気も素っ気もない関係にある。ただ単に、興味のある講義以外は登録だけして試験まで一度も出席しないという、妙な主義の早川にノートを貸してやるうちに、雑談をするような間柄になった。それだけだ。
「それで……」
 彼女はつまらなそうに本から目線をこちらに上げた。
「どうしたんだい」
「え」
「何か私に教えてやりたくてたまらない、と顔に書いてあるよ」
 早川に一泡吹かせてやれると思うとつい、顔がにやけてしまったみたいだ。
「ばれたか」
「わかりやすいよ、創田は」早川はパタンと雑誌を閉じた。「もったいぶらずに言ってくれないか」
相変わらずの見透かしたような視線で見つめられると、不安になる。
 しかし、その見下したような顔もそこまでだ。これを教えてやるのがどれだけ楽しみだったか。

「実は、例の賭けの決着がついたらしいんだ」

◇◆◇


 講崎教授と光岡助教授の仲が険悪である、ということは、社会科学科の学生にとって、共通認識になりつつあった。
 講崎談三(こうさきだんぞう)社会学教授の口癖は「古典を読め」である。三十年以上の間、その人生のほとんどを社会学理論の研究に捧げてきた彼は、ウェーバーやデュルケームといった偉大なる先人たちを友人のように語る。
 自身の著作が社会学分野の基礎であり、中心であることを彼は自負していたし、それについて並々ならぬ誇りを抱いていた。研究には真摯に取り組み、プライドが高く、自分にも他人にも漏れなく厳しい。そしてそのことは、講義や試験によって、学生は嫌というほど思い知らされていた。俺もその一人だ。教授の講義の単位を取るのは、逆立ちして定年坂を登るより難しいという評判だった。

 一方、光岡文則(みつおかふみのり)社会学助教授は一年前に来たばかりの新任の教員だ。院生時代から数々のフィールドワークをこなす実践派の人で、若手の社会学者の中でも注目を集めている研究者だそうだ。講義は自身の経験を交えたもので、ホームレスに混じって生活した話や、チンドン屋で日本中回った話、バックパッカーで世界中を歩いた話など、面白い体験談が詰め込まれていて、わかりやすいと評判だったし、そのさわやかな風貌と丁寧な指導で学生の支持も厚かった。フィールドワークで彼が得た人生哲学は、人とは対話によって分かり合える。∞礼を尽くす≠セそうだ。ゼミの人間からは中々アツイ人間と聞いた。

 その二人の対立は、言ってみれば当然の結果で、学生はむしろ知って納得した人が多いんじゃないだろうか。
「フィールドワークが重要な社会学的営みであることは認めるが、古典を原文で読んだことのないような若造がやってることは、遊びと同じようなもんだ」
 講崎教授が不機嫌に、こう講義で述べたという。
「理論の重要性は認めるけどね。でも、机の上で理論をこねくり回して、社会を分かったつもりになっているような人だけにはなりたくないな」
 光岡助教授がゼミで、こう毒づいたという。
 お互いに表面上は平静にしているが、内心穏やかじゃないことぐらい、学生にも分かっていた。

 その二人が久しぶりに同席することになったのが先月十月に開かれた、社会科学科の教員らの飲み会だったとか。いつもはどちらかが欠席するか、出席したとしても、同じ卓には絶対着かなかったのに、その日に限って席が近かったのが事の発端。
 同席していた心理学の角川(かどかわ)篤子(あつこ)助教授の話では、喧嘩の原因は馬鹿馬鹿しくなるほど些細なことで、光岡助教授が最後に残っていたから揚げを取ってしまい、それをゆっくり食べようと思っていた講崎教授が、若者が譲らないか、だいたい前から気に入らなかったんだと酒に酔った勢いで絡んだのだとか。

 ま、この話は、心理学専攻の友人、新木(あらき)潮(うしお)に聞いた話の受け売りなんだけれども。
 二人とも酔っていたし、周りの教員たちも酔っていた。そこで口論が盛り上がってしまった挙句、どういう流れか、お互いに三ヶ月禁煙できるかを、賭けにすることになったのだとか。賭けに負けた方は年末の社会学専攻の忘年会で、余興をやらなければならない。お互いにヘビースモーカーで、年中タバコの臭いをぷんぷんさせて女性に不評だった二人だから、もしかすると教員の誰かが喧嘩を妙な具合に煽って担いだのかもしれない。案外、愉快そうに事件を話していたという角川助教授が怪しい。
 講義の前後は必ず喫煙所に出没し、一日一箱はノルマであるかのように吸う二人が、喫煙の賭けをしているという話は、翌日には両ゼミの学生をはじめ、社会科学科の学生の耳に入ることになった。
 そこで社会学専攻の学生たち十数名が、おもしろがって、どちらが先に禁を破るか賭けを始めたという次第だ。もちろん、俺と早川もその内に入ってる。
 賭けに負けた側は、勝った側の飲み代を全て持つ約束で賭けが行われた。二人のタバコ中毒っぷりは有名だったから、大方の予想は、一月以内にどちらかが折れるだろうという感じだったが、予想を裏切り、意地の張り合いか、禁煙は一月続き、長期戦の様相となっていた。だが。

◇◆◇


「君がそんなに嬉しそうなところを見ると、禁を破ったのは講崎教授なのか」
 俺が賭けたのは光岡助教授、早川が賭けたのは講崎教授だった。
「ああ。さっき、新木から聞いたんだ」
「意外だな」いつも不遜な彼女が驚いているのを見て、俺はしてやったりと、内心勝利をかみ締めていた。
「今日、講崎さんが吸ってるのを、新木たちが目撃したんだと。早川に早く教えてやりたくてさ」
「新木くんが見ただと」
 そう呟くと、早川は俯き、何考え込んでいるようだった。
「ん、そうらしいぜ」
「いくつか質問したいのだが、いいか」

 急に真剣になった早川に少し気圧された。
「え、ああ。新木から聞いた話だから、俺も詳しいことはあんまり知らないけど」
「新木くんが講崎教授の喫煙を見たということだが、それは何時(いつ)で、何処(どこ)だったんだ」
「新木が教養の講義を受けた後だから、2コマの終わり……昼ごろかな。昼飯のパンを生協で買っていたら講崎さんがタバコを買ってるのを見て……」
 お昼のラッシュの中、新木がレジの列に並んでいると、悠々と煙草の銘柄を指定する講崎さんが居たらしい。
「たしか、講崎さんはそのコマは空き時間だったな」
「そういや、そうだな」
「それで」
「ん」
「それからどうしたんだ。続きだ。それで教授はどうした」
 自分で話の流れを切っておいてその言い草か、とも思ったが、俺は既に早川の勢いに呑まれていた。
「それで、新木がこれは……と思って後をつけたら、共通Bピロ近くの喫煙所で吸ってたとか。携帯で写真も取ったらしい。あいつも光岡さんに賭けてたから、今頃光岡さんに教えるつもりなんだろ。俺が聞いたのはこれくらいだ」
 共通B棟のピロティ付近はお昼時になると勤勉なスモーカーたちの煙がもくもくと立ち昇っている。共通棟付近は学内でも人通りが多い。
 話し終えてみれば、早川はまるでこっちに注意を向けてなくて、ぶつぶつと何か呟いていた。失礼な奴だ。

「ほう、じゃあ、講崎教授は……ああ、そうか……」
 そう、早川は普段見せないよう顔で笑うと、こう独り言ちた
「……なるほど」 
 擬音で表すと、『にっこり』ではなく、『にんやり』といった感じで可愛くもなんともないのが、早川らしい。
「何が分かったんだ」
質問してきたかと思えば、話を無視して考え込んだり、急に納得したり、……こいつと付き合っているとこういうことも、しょっちゅうだけど。

「いや、なに、ちょっと納得がいかなかったんだ。講崎教授がこうもあっさり賭けに負けるだなんて」
「そりゃ、あのヘビースモーカーの教授なんだから。よく一月持ったってぐらいだろ」
「じゃあ、君は教授が忍耐の限界に達して、遂にタバコに手を出してしまったと、思っているのか」
「だって、そうだろ」
「私はそうは思わない。教授は確かに一時間と持たない愛煙家だったが、彼はそれ以上にプライドと自制心の高い人間だ。それに光岡助教授への対抗心は並々ならぬものだった。」
「でも、それは光岡さんだって同じじゃないか」
「条件は確かに同じだ。二人とも愛煙家、仲の悪さも有名で、禁煙の賭けだって社会科学科の学生と教員には広く知られていた」
「だから何がおかしいって言うんだよ」
「では、一つ君に聞こう。君が講崎教授の立場だったら……気に入らなくて、絶対負けたくない相手と、どちらが禁煙を達成するか賭けていたとしてみよう。ある日、君はどうしてもタバコが吸いたくなった。さて、どうする」

「俺だったら……。俺なら我慢できるんじゃないかな」
「馬鹿者が。見栄を張ってどうする。自分が吸うとしたらどうするか、考えたまえ」
 あきれた様に意地悪く笑う。
「あー、こっそり買って、ばれないように吸うとか?」
「そうだ。こっそり吸えば、ばれない――と考えるのが普通の人間の思考だろう。まあ、吸ったところで非喫煙者なら、臭いですぐ分かってしまうだろうがね」
「それがどうしたっていうんだよ」
「はあ、君は本当にどうしようもない馬鹿だな。よく頭を使いたまえ大学生。講崎教授がタバコを買ったのは何時で、何処だった。どの喫煙所で彼はタバコを吸った。想像してみるんだ」
「……あ」
 昼ごろの共通A棟前の生協――学食には長蛇の列ができて、生協の中は昼食のパンや弁当を買う学生であふれかえっている。そして、講義終わりの学生や教員が喫煙所に集まって談笑している時間でもある……。
「どうやら気づいたようだな」
「講崎さんは、わざわざあんな混んでいて人目のある中でタバコを買って、吸おうとしたのか」
「そうだ。そしてさらにいくつか補強する事実がある。まず、その日、共通棟では人文学部の教養講義の日だったこと。これはちょっと調べればすぐわかる。現に、新木たち社会科学科の学生も大勢共通棟にいた。
 もう一つは講崎教授の足取り。講崎教授は、今日の2コマは空き時間だった。ということは、講義中で人の少ない時間だって良かったわけだ。それをあの時間帯。しかも、わざわざ下まで降りてくるとは」

『下』というのは、人文学部の学生の間で、共通棟や生協のある地帯を指す。人文棟は徒歩十分の高台にあり、『上』だの『山』だの呼ばれている。
「そういえばそうだな。『上』にだって生協ショップはあるのに」
「人文棟を避けるなら、共通棟に行く前に、教育学部のショップだってある」
「じゃあ、講崎さんはわざと……」
「ああ、わざと人の多い所でタバコを買い、吸ったんだ。おかしいじゃないか。そもそも我慢できなくなったのなら、自動車で構内を出て、近くの自販機にでも買いに行けばいい。大学から離れれば、ゆっくり吸える喫茶店なんていくらでもある。そんな簡単なことに気づかない講崎教授じゃない」
「じゃあ、なんでそんなことを」
「じゃあ、次はそれについて考えてみようじゃないか」

◇◆◇


 早川が場所を変えようというので、大学を出る。すぐそこの喫茶店サボーレにしようと言ったが、いや、私が車を出すからあそこにしようと、早川が逆に提案した。彼女は大学付近に、豪勢にも契約駐車場を借りていた。車から降りてみると、そこは、街道沿いにある、喫茶店クロノコだった。

「朝から何も食べてなくてね」
 そう言いながら、容器から飛び出しそうに盛られた小倉パフェをつつく早川は、見かけどおりに女の子らしい。
「その顔は、私がパフェが目当てで誘ったとでも思っている顔だな。君は顔に出るからすぐ分かる。疲れた脳にはこの糖分が必要なのだよ。少し待ちなさい」
口を開けばこれだ。俺はコーヒーをすすりながら、早川の華奢な体に小倉パフェが収まっていくのを眺めていた。
「さて、再開と行こうじゃないか」
二十分ほど経ち、容器が空になったところで、ようやく早川は本題を切り出した。

「待ちくたびれたよ」
「では、次の議題だ。なぜ、講崎教授はわざわざ人の多い共通棟でタバコを吸ったのか、だ」
「そんなことをしたら、すぐにばれちまうだろうにな」
「そう、その結果として、現に新木くんらに見られ、光岡教授の勝ちが決まった」
 あのプライドの塊みたいな人が、わざと負けるようなことをどうしてしたんだろう。
「……あ、そうか」
 急に天啓のごとく、俺の頭の中で閃めきが起こった。
「何か思いついた様だな」
「そうだ、光岡さんが脅迫したんじゃないかな」
「ほう」そんな俺を見て、余裕の笑みの早川。「それはおもしろいな」

 そのむかつく笑みもそこまでだ。見てろよ。
「光岡さんは講崎さんへの恨みが募っていて、何としても賭けに勝ちたかった。何しろ負けた方は飲み会の余興だからね。講崎さんにとって、何より恥ずかしいんじゃないかな。
 だから、昨日、恨みが爆発してついに脅迫した。例えば子どもに危害を加えるとか、あなたが不倫したことを奥さんばらすとか。まさか、講崎さんが論文を盗作した事実を握ってるんじゃないか。うん、そういう脅しで、禁煙をやめて、わざわざ目立つようにタバコを吸わせ、賭けに負けるように仕向けた……」これは面白くなってきたぞ。
「あー。ストップ、ストップ!……君は妄想で、仮にも自分を指導してくれている教員を陥れたいのかね」
 せっかくいい所だったってのに。
「早川だって似たようなもんじゃないか」
「推理と妄想を一緒にされては困るな。いいかい、創田の話は大変面白かったが、しかしただの妄想だ」
「なんだよそれ」
「なるほど、あれほど賭けに燃えていた講崎教授がわざと負けるくらいだ。脅迫、というストーリーも無くはない。実際、この一件で光岡教授は得をし、講崎教授は損をしている。でも、やはり脅迫は現実的ではないね。いくらなんでも脅すのは大げさだ。それにリスクが大きい割に、得るものは小さいじゃないか。君の妄想がいくらか事実で、私が光岡助教授なら、講崎教授を賭けにわざと負けさせるよりは、金銭を要求するし、盗作の事実なんか掴んだら、さっさと公表して学会と大学から追い出してしまえばいいんだ。」
 ……この場合、教員を陥れようとしているひどい学生は、早川の方じゃないだろうか。

「それに脅迫したからって、講崎教授が大人しく従うとも思えない。賭けで講崎教授が負けて利を得るのは、光岡助教授か、君たち光岡助教授に賭けた学生だけだ。匿名で脅したところで、賭けに負けろなんて要求したら、すぐに犯人はばれる」
「で、でも、講崎さんを前々から恨んでいた別の人物って可能性だって……」
「それも無いね。その場合も、脅迫のネタをばらしてしまうのが、手っ取り早い。それか、人質を取るか? 確かに復讐という動機は何より強いが、恨み募って人質を取った挙句にすることが、下らない余興で恥をかかせることだと? 馬鹿馬鹿しくて、悪戯としか思えない。警察に相談する気にもなれないね。とても要求どおりに、素直にタバコを吸おうなんて考えないだろうよ。脅迫した側も、脅迫された側もだ」
 俺の説はねちねちと、執拗なまでに、完全に否定されてしまった。
「たく、じゃあ何だって言うんだ。もう、早川には分かってるんだろ。いい加減教えてくれよ」
 早川は、手を軽く挙げて店員を呼び止め、自分もコーヒーを頼んだ。
「拗ねるなよ。君との議論も無駄ではないさ。ここで分かるのは、講崎教授は自分の意思で禁煙の賭けに負けたということだ。決して誰かに負けるよう仕組まれたわけでは、ない」

「わざと負けて得することなんて何も無いじゃないか」
「そうだな。講崎教授はさぞ悔しかっただろうな。でも、それも覚悟の上での行動だ。おそらく、昨日今日で何か講崎教授の状況が変わった。負けることに何か別の意味が出来た……」
「別の意味?」
「分からないか。複雑そうに思えるが、実にシンプルな理由だ。プライドが服を着て講義をしているような講崎教授を動かすもの――それは、プライドだ」
「はあ?お、おまえなあ、俺が頭悪いからって、いくらなんでも馬鹿にしすぎだろ!」
「いやいや、私はいつだって真面目だよ。確か以前、君から二人の教員に対する人物評を聞いたことがあったな。君は少々鈍いところがあるが、人を見る目だけは確かだと、私は買っているんだ」
 ……俺は、今、お前に付き合っている自分に呆れているけどな。
「確か、講崎教授のことを君は、プライドは高いが、研究に対しては真摯で、自分にも他人にも厳しい、と言っていたと記憶しているんだが……」
「よく覚えてるな」そんな話をしたのは、ずいぶん前で、しかもその一回だけのはずだ。
「ありがとう。記憶力には自信があるんだ。……ぼくも、君の見立てには賛成する。そして講崎教授が僕たちの考えるような人物ならば、多分、彼を動かしたのはこれだろう」そう言うと、早川はカバンから何かを取り出し、雑にテーブルの上に置いた。
それは、さっき彼女が図書館で読んでいた雑誌だった。表紙には論文のタイトルと光岡文則の名前が載っていた。
「光岡さんの、論文……」
「そうだ、昨日発売された最新の学術誌、しかも、年中いがみ合っているやつの書いた論文だ。講崎教授が読まないわけがない」
 俺はぱらぱらと雑誌をめくってみたが、内容は斜め読みで分かるような代物じゃないことだけ分かった。
「さっき読んでみたが、やはり、中々の出来だ。データも中々整理されているし、分析も丁寧。論理展開も良く出来ている。それに……ここだ。ここを見てくれ」
 そこには、参考文献の欄に、講崎さんの著作が三冊、名を連ねていた。
「ここまでされては、講崎教授も考えざるを得ない。教授は先入観を捨てて、公明正大に論文を読んだことだろう。多分、そう、悪い評価ではなかったんじゃないかな」

 そこで、ようやく、早川のコーヒーが到着した。彼女は小さくウェイトレスに礼を言うと、ミルクを二つ、角砂糖を二つ入れ、ぐるぐるとさじを回しながら、話を続けた。
「彼は葛藤した。光岡助教授のことは気に入らないが、論文は評価に値する。これが別の研究者なら、彼は素直に賛辞を伝えただろうね」
 著者がいけ好かない奴でも、自分の認めた論文。直接褒めたくないから、間接的に、なにか態度で表そうとする――。
「そうか。……だから、わざわざ目立つように禁煙を破ったのか。賭けにわざと負けることで、遠まわしに評価を伝えようとしたんだ。自分が宴会の余興で恥を掻くことを厭わないくらい、光岡さんの論文が立派なものだったって……」
「彼は傲慢でプライドばかり高くて、人間としてはあまり好きにはなれないが、研究者としての業績と姿勢は確かに一流のそれだ。あの分かりにくいメッセージは、権威ある者としてのプライドと、研究者としてのプライドの妥協点だったんだろう」そこで、言葉を区切り、彼女は甘ったるいコーヒーの味を確かめた。
「光岡さんはわかったのかな」
「真っ先に論文の批判をしに来そうな人物が、丸一日大人しくしていたと思ったら、この賭けの結末だ。間違いなく、最高の賛辞と受け取っただろうさ」
俺もつられて冷めたコーヒーを飲み干した。
しばらく、俺も早川も喋らなかった。俺は、今までのことを反芻していた。そして、ふと気づいた。
「でもさ、早川の話だって、結局全部推論だよな。本当なんて保証、ないんじゃないか。」
「ほう、どうやら、ようやく冴えてきたようじゃないか。確かにそうだ。私の言ったことなんて、全部口からでまかせ。君をからかう為の話のタネでしかないかも知れない」
「ま、まさか、本当に最初から最後まで俺を担いでたって言うのか」
「さあ、どうだろうね。そうだ、それなら私たちだけで、最後にもう一つだけ賭けてみようじゃないか。君の人物評で、光岡助教授はどう言っていたかな」

◇◆◇


 結果から言うと、俺は早川との賭けに、あっさり負けた。
 彼女の言うとおり、翌日、人文学部棟の喫煙所で、仲良くタバコをふかしながら白熱した議論を交わしている二人が目撃されたからだ。
 賭けの賞品は、彼女にパフェとコーヒーを近いうちに奢ること。よく考えれば、最初に賭けに勝ったのは、俺のはずだった。丸め込まれたようで、なんだか腑に落ちない。
 俺は、今日も講義に出ずに、図書館で読書に耽っているだろう早川の元に向かいながら、昨日の彼女との会話を思い出して、苦笑した。賭けの話が一段落して、会計に向かう時の会話だ。
「私に言わせれば、禁煙だなんだと、大騒ぎするのが下らないね」
 俺が、「確かに」と頷くと、早川はコーヒーを飲み干し、その日、一番楽しそうな笑みを浮かべ、こう言うのだった。

「煙草なんてものは、子どものうちに止めるものだ。私はそうした」