双月夜
静かな夜だ。風の音さえしない。
空気さえ重く感じられる。
虚空にはただ一つ月がある。
ざっざっざっざっざ…
時さえも止まってしまったような林の中を動くものがある。
ざっざっざっざっざ…
地面に積もった落ち葉を踏みしめながら歩いてくる青年。前髪がかかって表情は見えない。
ざっざっざっざっざ…
詰襟の学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。背格好から高校生だとわかる。
ざっざっざっざっざ…
しかしその腰には不似合いな黒鞘の日本刀。
ざっざっざっざっざ―――
歩みがとまった。
青年は林の中の広場に出た。
青年の視線の先には広場の中央の大きな岩に腰掛ける男の姿がある。
月明かりでもはっきりと分かるほど毒々しい紅い髪。
再び時が止まる。無音の世界。
「…赤金(あかがね)だな。」沈黙の後、青年が口を開いた。
「ふん…俺もずいぶん名が知られるようになったものだな。」男が不気味ににやりと笑った。男は続ける。
「討魔師か。俺はまだこの町じゃ三人しか喰ってないっていうのに…ご苦労なことだな。」
青年は何も答えない。
男が立ち上がる「きさま、名はなんと言う。」
青年は微動だにしない。「橘 雪那(たちばな せつな)」
「ほう、橘の血筋か。これは――――」
男がしゅっと両の手を振ると男の手は鋭い、そして赤い刃と化す。
「――――楽しめそうだな。」
ザッ
男が跳ぶ。凶悪な赤い凶器を振りかざして。
慌てることなくゆっくりと青年は刀の柄に手を添える。
刹那
キン
刃物の触れ合う音。
青年は一歩も動くことなく二つの刃を一本の刀で受け止めた。
キン
キン
シュッ
シュッ
シュッ
キン
男は刃を突き、薙ぎ、斬り、
縦から、横から、上から、下から、あらゆる方向から青年に走らせる。
青年はそれを余すことなく
受け、流し、避け、かわし、刃は青年を切り裂くことを許されない。
キン
シャッ
ザッ
…それはまるで音楽、月の下行われる紅と銀の剣舞。
「避けるだけか?かかって来いよ!腰抜けが!!!!」男が罵る。
青年は受けるのみだ。
しかし事実は違う。男は焦っていた。いつだってその血よりも赤い両手は簡単に得物をばらばらに引き裂いてきた。
それが彼の自慢だったのだ。
それが青年に一撃も当てられないとは。男が引きつった笑いを浮かべる。
ザッ
青年が大きく後ろに跳び、距離を取った。息一つ乱れてはいない。
「終わりだ。」青年ははき捨てるように言った。
刀を構えなおすと一気に男の真正面に飛び込んだ。
「橘流斬魔刀術――――」
「ばかめ!八つ裂きにしてやる!!ひゃーはははは!!!」男が迎え撃つ。
しかし次の瞬間ふっと青年が男の視界から消えた。
「!?」
そして背後から冷たい殺気と声が響いた。
「――――『夜鷹』」
ざしゅ
男は肉を切り裂く聞きなれた音を聞いた。
ダンッ
どさ
男は体をふっとばされ、木に体をぶつけた。
とっさに男は逃げようと思った。
浅はかだった。やはり橘と関わってはいけなかった。
後悔と恐怖の念が体を駆け巡る。
しかし、逃げることは叶わなかっ
――――なぜならすでに彼の下半身はなかったのだから。
はるか向こうに彼の懐かしい脚がある。……あそこまで行かなくては
ずるずると腕だけで這う。這った後にはナメクジのように臓物と血の跡がつく。
ず…ず…ず…
と、男の目の前に靴があった。
ゆっくりと視線を上げれば・・・
青年が立っていた。手に持つ刀にはべったりとどす黒い血液。
「ひぃ…あっあっあっ……ぎゃあ〜〜〜たすけてくれ〜〜〜」泣き叫ぶ男、懇願する、生を。
―――見上げている男には月が見えた。暗い夜空に浮かぶ二つの月。
―――二つ?
男は恐怖と絶望に犯されながら、顔をくしゃくしゃに歪ませながら二つの月を見た。
一つは見慣れた空に浮かぶ月
もう一つは―――
もう一つは青年の左眼だった。そう、彼の左眼は金色に輝いていた。
「ハハハ…きさまの方がよっぽどバケモ・・・」
ザク
青年は無造作に刀を振り下ろした。
ごろんごろん
物言わぬ紅い『鞠』が転がっていく。
転がり天地が回る視界の中、男は思っていた。
ツキガキレイダッタナ・・・と
ざー
元、赤金と呼ばれていたものが砂となって闇に溶けていく。
青年の刀や服に付いた黒い血痕さえ、跡形もなく消えていた。
月は今もひとりきりで虚空に浮かんでいる――――否。
そこにあるは、二つの月。
双月の夜。
〈END〉