夜の残滓 惨死の月







――出遭ったのが運の尽きだった。





 
男には為すべきことがあった。
少年には順ずるものがあった。


男は黄昏に生まれ、宵闇に謡い、真夜を生き、暁を憂い、曙に死す者。
人からは妖しと呼ばれた。


少年は人でありながら暗闇を舞い、妖しと戦う者。
人からは討魔師と呼ばれた。


深夜の街、明るいネオン、闇にまぎれる、黒い詰襟の学制服。月に照らされる、闇色のスーツ、互いに喪服、互いに死装束、互いに嗤う。

……二人は出会った瞬間に互いを敵と認め合った。

暗がりを駆ける。
大通りを走り、路地を抜けて、金網を跳ぶ。
逃げているのか追っているのか。そんなものは二人には関係ない。逃げられず、また、逃げる気などもとより無かった。
間を計りながら男は少年を見る。
詰襟の制服、あどけない顔、歳はどう見ても十代。自分の半分にも満たないガキ。自分がこの年頃、何を思っていたかとふと考えたがすぐに止めた。忘れてしまった事は思い出しようがない。
だが、若いからといって侮る気など男にはかけらも無かった。
少年の左手にはナイロンの安っぽい袋の包み。
釣竿にでも偽装しているのだろうが、長さと質感ですぐに判る。日本刀か。


闇を疾走する
街灯を避け、塀の上を渡り、林を突き進む。
追われているのか逃げられているのか。
気配を探りながら少年は男を観察する。
少年は無言。
黒いスーツ、彫りの深い顔、歳はおそらく三十半ばと言ったところか。一見すればただの会社員にみえる。
だが、気は引き締めなければならない。妖しと戦う時に見た目ほど当てにならないものはない。
その身のこなしは先ほどまでスーツで大通りを歩いていた男と同じ人物とは思えない。


夜に二人、寂れた神社、切れかけた蛍光灯、舞う羽虫。
息を整え、向かい合う、ただ無言。
しゅるり、少年は包みの封を解く。
柄をにぎる。ゆっくりと引き抜き、構える。月明かりの下、静かに冴える。
対して男は日本刀を目の前にしながら不動。身じろぐことも無く少年を見る。


月が隠れる。ふと昏くなる……
刹那、
鋼の弾ける音がする。
放ったは男、防ぐは少年。
抉るべきを否定されたナイフは弧を描き、不服そうに地に突き刺さった。
間髪をいれず少年が仕掛ける。男は再びナイフを投擲するが少年はそれを顔色一つ変えずに叩き落とし、袈裟懸けに斬りかかる。
しかし鋼が悲鳴を上げる。少年の刀は男の身を斬り裂くことを許されない。
男はただ、己が生身の右腕だけで刀を受け止めている。
否、刀は男の皮膚にすら触れていない。刃は男が腕に纏った禍々しい赤黒い光に阻まれている。
男が口の端を歪め、嗤う。
少年が気づいた時には既に凶器の左腕は放たれていた。
男の貫き手は赤黒い刃と化し少年の腹を穿とうとする。
少年は小さく舌打ちし、体勢も考えず身を強引にひねりながら後ろに飛ぶ。
間一髪一撃を避ける。
しかし、男は攻めの手を緩めない。左の一撃の勢いそのままにバランスを崩した少年の腹を容赦なく蹴り飛ばした。
「ぐっ」
少年は呻き声を小さく上げたが、彼はそれでも踏みとどまり刀を構え男を睨みつけた。
「フン」
男はつまらなそうにそれを見下した。
……月がゆっくりと再び顔を出した。


男の胸にあるのは討魔たちへの憎しみだけだった。
……何も変わることのない幸せな日々だった。
男がいつも通り家に帰ると床は血の海だった。
男の妻と子には何の罪も無く、ただ「妖し」の血を引くというだけで討魔たちに惨殺された。
男は何も出来なかった。
男は全てを捨てた。討魔たちを一人残らず惨殺するにするために。
男は討魔たちを狩り始めた。そして殺した討魔の肉を喰らった。
男には力が必要だった。それがどんな禁忌であったとしても。
彼の中の魔は人を喰らうたびに強大になり、また討魔を殺せることへの悦びに打ち震えた。
そして彼は人だったころの記憶を失っていく。幸福な思い出も、復讐の理由さえも。
男の胸にあるのは討魔たちへの憎しみだけになった。もう妻と子の顔すら思い出せない。



少年に与えられたのはただ一振りの日本刀だった。
そして教えられたのはたった一つだった。
――妖しを狩れ、と。
だから少年は妖しを狩った。少年にはそれしか無かった。
少年には何も護る物など無かった。
彼はただ憧れた。自分が決して手に入れられないものに、触れること出来ない世界に。少年のことをただ一人悲しんでくれた少女の心に。



男の赤黒い刃のような二本の腕は縦横無尽に少年を攻め立てる。斬り、突き、薙ぎ、穿ち、払い、裂き、断つ。
しかし、少年は典雅さすら漂う美しさでそれを防いでいく。弾き、いなし、躱わし、封じ、受け、打ち、流す。
……どれほど打ち合っただろうか。互いに凶器を振るうたびに鮮血の華が夜に咲く。
両者の身体は血でまみれていた。
それが己の血か相手の血かはわからない。極限までに張り詰めた戦いの中で痛みなど感じる余裕も無い。
ただ、鋭くかん高い鋼の音だけが闇にこだまする。


男は追い詰められていた。自分よりも一廻り以上歳の離れた少年にただの一度も致命傷を与えることが出来ない。男が一手間違えばそれは死に直結した。
少年は焦っていた。相手は自分が倒してきたどの妖しよりも強かった。このまま戦えば体力の差で押し切られる事も考えられた。死はすぐ背後まで迫っていた。


そうして、男の恐怖が、少年の焦りが、何千何万永劫続くと思われた鋼の調べを狂わす事となった。
ぼとり、男の左腕が地に落ちた。少年の裂帛の気合が男の腕を斬り落としたのだ。
しかし、少年は堪えきれず膝をつく。男は腕を失いながらも無防備な少年の右膝を隠し持っていた最後のナイフで突き刺したのだった。
男は左腕の断面を押さえつけながら憎らしげに少年を睨んだ。
少年はナイフを引き抜き、意識を刈り取られんばかりの痛みに脂汗を浮かべながら、それでも立ち上がった。

彼らは負けることを許されなかった。否、許さなかった。
男には為さねばならない復讐があった。
少年には殉ずる信念とささやかな願いがあった。



……故に二人は命を惜しいと思うことなど微塵も無かった。



片腕では討魔には打ち勝てない。
男は己に残る全ての力を右腕に込めた。右腕が鮮血の紅に輝き染まる。
何物も防ぐことが出来ない極限の切れ味を持つ刃。
たとえこの身を貫かれようとも、……この右腕は討魔の首を刎ね飛ばすだろう。


この脚では妖しの速さにはついていけない。
少年は刀の切っ先をゆっくりと引き上げた。
いかなる攻撃をも止める絶対の刺突。
たとえ首を断たれようとも、……この身に染み付いた技は妖しの心臓を抉るだろう。




  放つは至高の一撃――
             互いに必殺――
                     ――故に、互いに必死。


男の身体が弾ける。構え、低く疾走する。

少年は泰然。ぎりりと柄を握り締める。



東の空は白く輝いている。
月だけが夜に取り残された。
もうすぐ夜が終わる。




      ――出遭ったのが運の尽きだった。
 
(End)