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おれは平静を装っていたが、頭ん中ではしっかり混乱していた。
夏の眩暈によって取り戻した思い出に惑わされていた。
「とりあえずさ、ウチ寄ってけよ。洗濯して乾燥機にかければ一時間かかんないし、そのまんま帰ったら本当に風邪ひくって。シャワー浴びてけよ」
背中におんぶした京は、しおらしくおれに身体を預けている。
「え、あ、う、……はい」
「あ、おまえ今なんかやらしー想像しただろ」
「し、してない」
「残念だったな、今姉貴が家に居るんだよ。まあ、着替えも借りれると思うから……」
「……」
おれは背中のぬくもりを感じながらゆっくりと歩く。
今日の京はなんかおかしい。
神社でずぶぬれの格好で居たこともそうだけど、泣いたり、急に素直になったり。
……でも、それ以上におれも今、たぶん変なんだと思う。
なんだって、そんなこと考えてるんだ?
はっきりと思い出したあの女の顔が京(みやこ)そっくりだったからか?
その上、思い出に誘われて来てしまった神社で京に会っちまったからか?
そんなばかな。
あるわけない。
沈黙が支配する中、京が口を開いた。
「先輩」
「なんだ」
「先輩には話してませんでしたけど、わたしも川で溺れたことがあるんです」
「へー」
「ちっちゃいころだったんですけど、増水した川にいろんなものが流れてくるのを見ているのが楽しくて……つい身を乗り出して……落っこちちゃって……」
「……」
「その時ね、近所の男の子が助けてくれたんだって、後から母に聞いたんです。少しだけ覚えているんですけど……」
「へー」
「だからわたし、それから水泳始めて、もう溺れないようにって」
「いい心がけじゃないか」
「……その男の子、わたしの初恋だったんです」
「ふーん」
再び沈黙が降りてきた。
おれはおれで考えがちっともまとまらない。
何か言おうと思うんだけど、言葉が出ない。
沈黙を破ったのはやっぱり京だった
「先輩は奇跡って信じますか」
「まーた唐突だな」
奇跡、という単語におれは笑ってしまった。ちょうどおれもその単語を思い浮かべていたからだ。
「信じてくれますか」
「信じないって言いたいとこだけど……どうやら信じざるを得ないみたいだなぁ」
「え?」
「よっと……」
おれは立ち止まり、片手で背中の京を支えながら、ポケットに入ったぼろぼろの蒼い蝶の髪飾りを取り出した。
「それ……」
「さっき、京が思い出話したからおれも一つ教えてやるよ。これはな、おれの美しくて甘酸っぱーい思い出のかけらだったんだよ……さっきまでな」
「うぅ……」
おれは笑いを押し殺す。
「別に話を聞く気は無いんだけどさ、むしろ聞きたくないし、本音としては信じたくない気分だ」
おれは「独り言だけどな」、とつぶやいた。
おれは再び髪飾りをしまい、京を背負いなおした。
あの日あの時、ぼんやりとした意識の中で、これと確かに同じ温もりを感じた。
「まあいいさ、早いとこ家に戻ろうぜ」
「はい」
……言えるわけないじゃないか。
「おれも初恋だった、なんてね……」
「何か言いました?」
「いいや、なーんにも」
おれは掛けてもいないメガネを直そうと眉間に指を当てた。
まるで今までずっと当然のようにメガネを掛けていたみたいに自然に手が伸びたのだ。
何だかおかしくて、何故かあったかかった。
そしておれは大きなため息をついて、また歩き出したのだった。
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