美咲 彩夏(VI)


何が起こったのかは相変わらずわからない。
でも、雷が落ち、煙が引いたその先に見えた光景を私は一生忘れないだろう。
重なる二人の男の影。
でも、おかしかった。
何がおかしいって、立っているはずなのに…二人の男は地面に立っていたはずなのに、片方の男の足はぶらぶらと宙に浮き、その胸からは何かの先鋭的なオブジェのように腕が突き出している。
「イヤーーーー」
 私はその光景の意味を理解してしまった。
 ぶらさがった男は――志狼は胸からとめどなく血を流しながら、虚ろな瞳で私を見て腕を伸ばし…何かを呟いた。
 いや、その声は聞こえる事は無かった。
 唇が動いている…しかしその口から漏れるのはひゅーひゅーという風の音ばかり。
 そして、志狼の手はそのままがくりと垂れ下がった。
 志狼の全身からゆっくりと力が抜けていき、血の気が失われていく。
 ずるり 男は、志狼の体から真っ赤に染まった己の腕を引き抜く。
 どさり 支えを失ったし狼の体は地面に投げ出される。
 うつ伏せに倒れたし狼の体を、沈めるように血溜が広がっていく…
「あぁ…」言葉が出ない。
「…し」
そう、彼の名前を…
「…シロウ…志狼…志狼」呼びつづけることしか出来ない。
 真っ赤な志狼の体を、目を反らすまいと懸命に見ようとする。
 でも、涙が邪魔をする。にじんだ視界を、何度も何度も腕でぬぐって…
 見たい、ウソだ、あいつの顔を…、きっと生きてる、…見れば分かる、あいつの側に…。
ふらりと、立ち上がる。
 もう、何も考えられない。
 志狼の側に…行かせて。
「行ってはならん、彩夏殿」不意に、呼び止められた。
 黒羽だった。さっきまで息をするのも辛そうだったのに、もう立ち上がっている。
 黒羽は男を、志狼の血の付いた腕をれろれろと嘗め回している化け物を睨みつけた。
「あっれ〜。名に怖い顔してんノ、わんちゃん?」化け物は口の周りを真っ赤にしてまたあのいやらしい笑いを浮かべた。
「あんたの『あるじ殿』ってサイコー、美味いのなんのっテ。くせにな・り・そ・う」
「やってくれたな…」黒羽はぎりぎりと白い歯を剥き出しにしながら化け狐に低く唸る。
「ひゃひゃひゃ…無駄無駄、わんちゃんって主人の力を受けて存在する式神の一種でしょ。ほら、『あるじ殿』が死んじゃったから存在が消えかかってるヨ」
見ると、黒羽の漆黒の体は薄く透明になっていた。
「く…」
「わんちゃんたちは強かったのにネ〜。…あんたたちの『あるじ殿』って弱すギ〜ひゃははは…」
化け物は独り笑いつづけている。
しかし…
「…くくくくく…あるじ殿が弱いって?はっはっはっは…」突然、黒羽はもう耐えられないといった様子で笑い始めた。
もう、怒りに狂っていた先ほどまでの面影は無かった。
「どうした?気でも狂っちゃったかナ?」化け狐は余裕を崩さない。
「狂ってなどおらんよ。お前はあるじ殿を殺せなかったんだからな」
「何を強がりヲ…」その言葉に…化け狐は明らかに動揺していた。
「強がりではありませんわ。」向こうに、白い犬が見えた。白羽、と黒羽は呼んでいた。
 さっきまで血だらけだったはずなのに、白羽の体には傷ひとつ無く、銀の毛並みを輝かせている。
「あなたにも聞こえるでしょう?力強い狗神の鼓動が。」
  ばくん  ばくん  ばくん
 神社の境内に響き渡る命の響き、倒れた志狼の体から確かに聞こえている。
 さっきまでぎゃあぎゃあ飛び回っていたカラスも身を潜めている。
 風すらもぴたりと止み、葉ずれの音さえ聞こえない。
  ばくん  ばくん  ばくん
 そこに響く確かな鼓動。
「ばかな…ばかなばかな…そんな事があるはず無い。」
「ヒントをやろう。本来なら、塚上の一族が持つ我ら式神…お前らが一般的に『狗神』呼ぶものは一人に付き一体が原則だ。二体持つ事など本来ならありえない」
  ばくん  ばくん  ばくん
「ありえない」化け狐はもう、話などまともに聞ける様子ではなかった。しかし、白羽が続ける。
「シローちゃんはね。『できそこない』って言われて塚上本家を追い出されましたけど、それはシローちゃんが自分で言うように塚上の『力』が無かったからではありませんわ」
  ばくん ばくん ばくん ばくん ばくん
鼓動は次第に強く、早くなっていく。
「むしろ逆。あるじ殿の力は強すぎた。あるじ殿の父、当主殿は息子を持て余した。塚上にとって必要だったのは、便利な手ごまとしての長男だ。操縦のできない化け物など邪魔どころか危険なだけだった。…奥方さまが庇わなければ分家になど行くこともなく、幼いうちにとっくに殺されていただろうな」
「まさか、では奴ハ!?」
「もう、遅いですわ。あなたは最悪、いいえ、最高の幸せ者ですわ。なんたって、本物の狗神に会えるんですもの。」
  ど ど ど ど ど ど ど ど ど ど ど ど ど ど ど …
 …そして、血溜の中に倒れていた死体がふらりと立ち上がる。
 背中を丸め、前かがみになって両腕をだらりとたらし、歯を剥き出してはぁ はぁと苦しそうに息をしている。
 先ほどの胸の『穴』は服の破れと血の痕だけを残して消えていた。
 志狼…なのだろうか。
 酷く背筋が寒い。
 私たち人間がその昔、火のぬくもりを知って、忘れ去ったもの。
 死の恐怖。
 狩猟者を前にして逃げる事も出来ず、死の時を待つ獲物の気持ち。
 きっと私と同じ気持ちをあの化け狐は感じてる。それも私より何倍も強く。
 目前の狩猟者の獲物は自分なのだと。絶対にやつには敵わないのだと。
 ぐるるると、志狼の姿をした化け物は唸り声を上げる。
「ふふふ、あるじ殿はな、力の制御などできんのだよ。何しろ我ら二人がかりで封印するのがやっとなのだ」
「この手負いではもう、わたくし達にもシローちゃんは止められませんわ。残念でしたわね」
「くそ、これでどうダ!」
 化け狐の鬼火。その炎の強さは先ほどとは比べ物にならない。
 先ほどまでの余裕など影も無い。まごうこと無き本気。先手を打って致命傷を与えるつもりなのだろう。
 青き炎の鞭は志狼を何十にも巻き込み、まさに火だるまとなった。
 志狼が死んでしまう。思わず駆け出しそうになるのを黒羽が止めた。
「彩夏殿、もう心配は要らない。もう、終わったのだ」
 ごう と大きく風が吹く。志狼を包んだ炎の色が青から鮮やかな赤へと染め変わる。
 赤い炎はやがて消え去り、前かがみのだらりと腕をたらしたままの志狼が、何事も無かったかのように現れる。
「……」狐も驚きの言葉など出尽くしたのだろう。
 先ほどまで、志狼たちを嬲っていたやつとは思えないほど、すっかり青ざめ別人だった。
 私は思う。 そこにいるのは狩られる側の者だ。
 狩る者には絶対敵わない。
 ゆらりと志狼は背筋を伸ばし、顔に手を当てて指の隙間から紅に血走る瞳を覗かせる。
 さも、いま気付いたように、化け狐を見、にやりと、歯を出しておかしそうに笑う。
 人間の物ではない長い犬歯がぎらりと光った。
 もはや声も出せなくなった化け狐がよろめくように後ずさる。
 志狼が身を縮ませる、それは獣の予備動作そのもの
 志狼の姿が消える。あまりにも自然で何が起こったのかわからない。
 ぐちゃり と嫌な音がした。
 化け狐も理解していないようだった。
 化け狐は気付く。自分の右腕の肉が骨が見えるほどに抉り取られていた事を。
 見てから痛みに気付き、腕を抑え、「ぐおおお」と狐は鳴いた、いや、泣いた。涙を流しながら。
 その奥で、志狼が真っ赤な塊を持っている。頭の中ではそれが化け狐の肉だと分かっているのに、私の心はその事態に追いついていない。
 べちゃりと、志狼は興味を失った肉の塊を地面に捨て、血まみれの右手をぺろりと舐めあげた。
 そして、「マズイ」と言ってけたけたと笑い出だした。その笑顔は、あまりにも無邪気で子供そのものだった。
 興味本位で生きた虫をバラバラにするような子供。手加減なんて物を知らない。その行為の残酷さなんて分かりはしない。
 恐い。志狼が恐い。
 化け狐は、やっと残った理性の一欠けらでようやく『逃げる』という選択肢を思いついたようだった。
 姿を人から獣へと変え、稲荷の裏の森へ逃げ込もうとする。
 だが、既に遅すぎた。
 志狼は跳ぶ。いや、飛んだ。その姿はあまりに優雅、そして妖しい。
 ふわりと軽く化け狐の前に着地し、くくくとまた声を殺して笑う。
 そして…
「シンジャエ」
 彼は無邪気に言った。
 次の瞬間、志狼は化け狐を掴みあげ、両手で引きちぎった。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 びち びち びち 
 血と臓物が滴り落ちる。
 キモチワルイ。
 化け狐は、ただの肉塊となった。
 そこにいるのは血に塗れた一人の青年だけ。
 そこにいるのは…誰?


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