美咲 彩夏(VII)
「彩夏殿!彩夏殿!しっかりして下され」
黒羽の声でやっと我に返った。
志狼は相変わらず肉塊となった化け狐で遊んでいる。
「顔色が悪いですわよ…とは言えあんな物を見せられて気分がよいわけありませんでしょうけど…」
「志狼は…どうしちゃったの…」そんな質問が口をついて出てきた。
私は志狼の事は何でも知ってると思ってた。でも違った…私の知らない志狼がそこにいた。
「シローちゃんは祖先に狗神という化け物を持っていますの。そしてその力を強く受け継いでしまった。…ただ、シローちゃんは自分に力があることなんか知りませんわ。」
「今のあるじ殿は封印が解けた状態だ。力を制御できずに暴走している。まさに赤ん坊と同じだ。今のあるじ殿には我らはおろか彩夏殿のことさえわかりはしない…」
「彩夏は逃げた方がいいですわ。シローちゃんに殺されたくないでしょ」
「我らはあるじ殿にやられようとあるじ殿が生きている限り死にはしない。しばらくすれば正気を取り戻す。あなたの知っている乾志狼は戻ってくる。彩夏殿は逃げなさい。それまで我らが時間を稼ぐつもりだ」
「でも…」今の志狼がいつもの志狼とは違う事なんてことは分かってる。でも…私は無邪気な笑みを浮かべつづける志狼がなんだかどうしようもなく悲しそうに見えた。
ゆっくりと…志狼の背中に歩み寄る。
「彩夏殿、やめてくだされ!そなたにもしもの事があれば!!」黒羽の声を後に一歩ずつ。
志狼は私の気配に気付いたのか、ゆっくりと振り返って真っ白に輝く犬歯を覗かせ、低い唸り声を上げる。
私のことが判らないなんて、全くなにやってんだか、…あとで叱ってやらなきゃ。そんな事を思った。
危険だって分かってるはずなのに不思議と恐くなかった。
…いや、本当は恐いのかも知れ無い。足はがくがくと震えてしまってる。でも、志狼を恐いなんて思いたくなかった。私が恐いなんて思った事を知ったら、志狼は悲しそうな顔して微笑むだろう。人が大好きで、人に嫌われる事を恐れ、それでいて人を嫌いになれない奴だ。
「志狼…」牙を剥き出して威嚇しつづける志狼にさらに近寄る。
「彩夏!やめなさい!」背後から白羽の悲痛な声が聞こえる。
「大丈夫。だって志狼なんだから。」笑ってこたえたが、多分笑顔も引きつっている事だろう。
一歩、また一歩にじり寄っていく。志狼は牙をむいたまま動くことは無い。
そして、ついに手が届く所まで来た。
そっと私は志狼を抱きしめた。
「ぁ!?」志狼は何が起こったか分からず目を丸くしているようだ。
次第に強く力を込めて抱きしめる。強く強く、ぬくもりを確かめるように、ぬくもりが伝わるように。
「ぐるるるる」志狼の腕に力が込められていくのが分かる。今の志狼にとって私などきっと小枝をへし折るよりも簡単に殺せる。ぎゅっと目を瞑った。
「彩夏殿ー!離れてくだされ!」黒羽の声が聞こえる。
「志狼…」祈るようにつぶやいた。
…死はやってこなかった。
あったかい…志狼の腕は私の後ろに回されていた。優しく、包み込むように。
「サ…イ…カ…」
頬に温かい物が伝わった。涙――志狼は泣いていた。
私も強く抱きしめ返した。
やがて…志狼の体からゆっくりと力が抜けていく。
志狼は私に体を預けながら、志狼は安らかな寝息を立てていた。