乾 志狼 (I)


「…あるじ殿、あるじ殿、起きろ、朝だぞ」低く太い声男の声が頭に響く。
 錆び付いていた歯車が動き出すようにゆっくりと意識が引き戻されていく。
 『あるじ殿』…となんだか時代劇のような大げさな呼び方ではあるが、今は間違いなく現代であり、その『あるじ殿』である僕――乾 志狼(いぬい しろう)はしがない大学生である。
 かと言って僕が使用人を雇うほどの金持ちと言うわけでもなく、僕は極普通のバイトに励む貧乏学生で、ここは屋敷というわけでもなく、安いだけが取り得のおんぼろアパートの一室である。
「う〜ん、朝から黒羽の低い声は寝覚めが悪い…今度から白羽が起こしてよ」
「悪かったな、寝覚めの悪い声で。」コクウが悪態をつく。
「シローちゃんのご指名なんてうれしいですわ。」シラハのやわらかな声が虚ろな頭に心地いい。
 …きっと、今の光景を誰かが見たら滑稽に思うだろう。いや、見られちゃまずい。だってこの部屋には僕以外に人はいない。ただ『声』だけが響くばかりだ。
「…今日、夢を見たんだ。本家にいた頃の夢」寝癖だらけの頭をくしゃくしゃとかきながら、体を起こす。
「ほう、珍しいな」
「夢の内容はあんまり覚えてないんだけどね。きっと昨日母さんから電話をもらったからだ。」
「どういう用件でしたの?」
「『本家』の法事に顔を出さなかったのがまずかったみたい。他の分家から母さん達が随分愚痴を言われたって。一年近く帰ってないしな。…まあ、盆には帰るって言っておいたけどね」
「相変わらず、本家が嫌いか?あるじ殿。…本来ならあるじ殿の本当の家であると言うのに」
 『声』は悲しそうにつぶやく。
「黒羽!だまりなさい!」その言葉に白羽が過敏に反応し、ぐるぐるとのどを鳴らし威嚇する。 僕の事を思ってのことなのだろうが…
「大丈夫だよ、白羽。気にしてない」なだめておかなきゃまた喧嘩を始めるだろう。
「黒羽、僕はこれまでもこれからも乾志狼で、父さんと母さんを本当の両親だと思ってる。それは変わる事はないよ」自分に言い聞かせるようにつぶやく。
 僕はじっと自分の手を見つめる。両の腕、手首から肘にかけて真っ白な包帯が幾重にも念入りに巻かれている・・・。
「シローちゃん、なんか玄関の方が騒がしいようですわ」再び『声』が部屋に響いた。
「あ゛!?」マズイ…非常にマズイ…
 そうだった…。
 自分でも血の気が引いていくのが分かる。脂汗がだらだらとほほを伝っていく。
「どうした、あるじ殿?」
「きょ、今日はさいかちゃんと出かける約束してたんだった。すっかり忘れてた…」
「それは…まずいのでは?」
「白羽!黒羽!おとなしくしていてくれよ!」
ベッドから飛び起きると玄関に向かって慌てて駆け出した。


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