美咲彩夏(II)
初夏のさわやかな風が通りを抜けていく。春を過ぎ、人々の中で『日差し』の認識は『心地よいもの』から『鬱陶しいもの』へと変化しつつある。夏の訪れを感じずにはいられない。
緑あふれる市街地の広い大通り、休日と言う事もあって人通りも多い。店先には衣料品店がこぞって夏物のセールをし、夏らしい鮮やかな色彩に溢れている。
私の隣を上機嫌に男が歩いている。彼の手には彼のお気に入りのクレープがある。口のまわりは生クリームでべとべとだ。
一見してどこにでも居そうな青年…と言うかこれだけで彼の説明など足りてしまう。体つきはどうにも頼りなく、優男。よれよれのワイシャツが余計にその印象を強くする。
その表情は落ち着いて…というよりはなんにも考えていないように見える。いや、実際こいつは何にも考えちゃいないのだ。
私が志狼と知り合って一年近くが経とうとしている。きっかけは何だっただろうか、たしか友人からの紹介だったはずだ。
私、美咲彩夏はこの男に…その…つまりは…あれだ、ゴホン………恋している。
…どうしてこんな奴を好きになってしまったのだろう。我ながら理解に苦しむ事がある。
言うなれば、腐れ縁。出会った時からどうにも志狼は危なっかしくて、放っては置けない雰囲気を持っていた。
要するに母性本能をくすぐられると言った感じだろうか、いや、そういうよりも、雨に濡れた仔犬のような愛おしさと言ったほうがしっくりくる。
志狼はやたら体が弱い。運動音痴だし、低血圧で、貧血だってしょっちゅうだし、そのせいで朝はなかなか起きない。
朝迎えに行って起こしたり、家事がまるでダメな志狼のために(よく一人暮らしする気になったもんだ)、家に上がりこんでいる内に、いつの間にか志狼の世話を焼くのが仲間内での私の役目になってしまっていた。
どうやら大学内では当然付き合っているように思われているようだが、実際の関係は噂とは程遠かった。
原因は明らか。志狼の性格。
ボンクラ朴念仁。救いようがなく鈍感、志狼の友人曰く『あいつは恋だの愛だのって言葉知らないんじゃないか?』
……無論、私の気持ちなど気づいているはずもないだろう。
私は私でそういった告白だとかアプローチだとかいうことには本当に奥手だった。
二人の関係はすでに男女の関係を超え同性の友人と化しつつある。部屋の合鍵を持ち、志狼の部屋で泊まろうとも志狼は全く私を意識しない。それも志狼が慣れたとか言う事じゃない、男女が一つ屋根の下寝るという事も彼にとっては大した事じゃないのだ。他の女性でも変わらないだろう。
親しいのはいいが、異性としてみてもらえないのは、一応私も女なのだから悩んでしまう。
志狼をそれでも諦めない私を、友人たちは心底同情してくれている。志狼の友人からはもはや尊敬されてしまっている有様。
……私は誰かに言った覚えは無いのだが、周囲の人間には私の志狼への想いは勝手に知れわたっていた。
そんなに私は分かりやすいのか、それだったら全くなぜ志狼は気づいてくれないのだろうか…?
…などと抜け出せない思いをめぐらしていると…。
「彩夏ちゃんもクレープ食べる?」……全く緊張感の無い笑顔と差し出された食べかけのクレープに、悩みは深まるばかりだ。
どうしてこんな奴を…私は再びさっきの自問を繰り返す。
隣を歩いている志狼の腕をちらりと見やる。白い包帯が彼の両腕には幾重にも巻かれている。怪我をしているわけではない、志狼はどんな時であっても人前で両腕の包帯を取ることは無かった。私も以前気になって尋ねてみたことがある。志狼は幼い頃に大火傷をしてた痕だと言った。 志狼はその包帯を決して触らせようとはしない。
以前勇気を出して志狼と腕を組もうとして、激しく振りほどかれ、拒絶された事がある。
無意識にやったことらしく、志狼は後で何度も謝っていた。実際、私はけっこうショックだった。何せ、あんなに激しく取り乱した志狼を見たのは初めてだった。
以来私はその腕の包帯については触れないようにしている。『腕を組んで歩きたい』という願望は消えたわけではないのだが。
しかし、こんなもやもやした気持ちも今日で終わりにする。
今日は買い物と称して志狼を連れ出したが、今日の今日こそはこの気持ちを志狼に伝えてみせる。
この大ボケには態度では伝わらないのだ。口に出してやらねばこいつは理解できないに違いない。
そう!後は行動あるのみ……と、隣を歩いていた筈の志狼がいなくなっていた。
「志狼?」ふとしたことで志狼を遠くに感じる事がある。ちょっと姿が見えないだけで一瞬不安に襲われることがある。私は彼のどこまでを知っているというのか。
「彩夏ちゃ〜ん!たこ焼き食べよ〜〜!!」公園の向こうに笑顔で手をブルンブルン振っている志狼がいる。
どうして、どうしてこんな奴を…
ため息をついて、私は何度目かの同じ自問をまた繰り返す…