乾 志狼(II)
「しろう、志狼、志狼、…しろ〜〜!!」
「わ!?」僕はそれが自分の名前を呼ぶ声だとようやく気づいた。
喫茶店中の客が僕たちに注目している。
一旦今までの思考を一気に片隅に追いやる。
「志狼?また話聞いてなかったね?」
「え…ああ…」
日差しが眩しい窓際の席、正面にはなんだか不機嫌顔でコーヒーを飲む友人、美咲彩夏。
軽い昼食をとろうと喫茶店に立ち寄ったのだが…
…どうやらまたしても友人を怒らしてしまったようだ。
「ごめん、ちょっと考え事してたから…」冷めたコーヒーをスプーンでぐるぐるかき混ぜながら、必死にごまかそうとする。
「志狼、あなた今日はさっきからなに話しても上の空だね、なんだかさっきから怖い顔して考え込んでるし。そんなに私の話は詰まらないかな」彩夏ちゃんらしくないちょっと悲しげな表情にちょっと罪悪感を感じられずにはいられない。でも…
「う…本当にごめんね。ちょっと気になってることがあって…。」
実際僕は心穏やかでなかった。こうして彩夏ちゃんと話してはいても先ほどから別の事をずっと別の事に気をとられている。
僕の視線の先には窓の外、郊外にみえる鬱蒼と木々が茂る丘があった。
さっきから…あの公園の辺りから頭の中で声がいていた。ずっと聞こえている…次第にはっきり、大きくなって。
「来いヨ…犬ころ…お前を待ってるんダ」低い声。僕を誘ってる。塚上の血筋の者は闇の者たちにとっては仇敵であり、同時に至高のご馳走であるらしいとは聞いていたがまさか僕にそれが回ってくるとは…
塚上は江戸時代からの反物問屋として知られる旧家だ。明治期に建てられたという屋敷は圧倒されるほど大きく、門から玄関まで優に100メートルはある。庭など下手な公園なんかより大きかった。
塚上の財力は現代でも確固たる地位を築いており、地元の議員や大企業の社長ですら当主の前ではへこへこ頭を下げるらしい。
僕は弟に当たる者が生まれた次の年にはさっさと養子に出されてしまった。僕が塚上の家を追い出されたのが5歳の時、本家の記憶はほとんど残っていない。
僕の血縁上の父――現当主は僕がどうにも気に入らなかったらしい。
塚上家は代々不思議な力を持つ一族であるが、幸か不幸か僕には大してその力は受け継がれなかったと言うのだ。
要するに乾の父さんと母さんは僕という『できそこない』を押し付けられたわけだ。
しかし子供のいなかった乾の両親は僕を本当の子供として育て、愛してくれた。これだけはどんなに感謝しても足りない。
両親には随分迷惑をかけた。何しろ養子にもらった子共は本家に愛想をつかされた厄介物だ。本家の命令だから引き受けたと言うのに分家の中ではずいぶん肩身の狭い思いをしている。
ご丁寧に本家は僕を始終監視した。自ら縁を切っておいて僕が何をしでかすか気が気じゃないらしい。高校まで分家の連中や塚上の息がかかった者に監視されつづけ、家の外では気の休まる時なんて無かった。
高校三年の時、思い切って県外の大学を受験して、合格と同時にこちらで一人暮らしを始めた。
住み慣れ、思い出もある故郷を出るのは抵抗もあったが、本家の息のかかった者達に監視され続けて生活するのにはもう耐えられなかった。
そうは言ってもとてつもない権力をもっている塚上家のことだ、僕の知らない所で少なからず監視は続いているのかもしれない。しかし故郷にいた頃ほどの不快さは無い。
…そして知ってしまった。出会ってしまった。
大学の友人達は誰もが今までの僕を知らない。本当の自分、塚上の血を引く『できそこない』としてではなく、乾志狼として僕に付き合ってくれる。それは僕にとって感動すら覚えることだった。
そして、今、僕の前には『彼女』がいる。
初めて故郷を出て何も出来ない僕をずっと支えつづけてくれた人。やつの狙いは塚上の人間。彩夏ちゃんだけは…彼女だけは…こんな事に巻き込むわけにはいかない。
再び声が響く「お友達も連れてきてヨ。ああ、お前を殺したくてたまらないんダ。早ク!早ク!早ク…」殺す…その言葉に身震いする。彼女が…もし殺されるようなことになれば…
そう思うと居ても立ってもいられなかった。
「あのさ、志狼…今日はちょっと大事な話が…」
「ごめん、彩夏ちゃんちょっと僕、急用思い出しちゃった。ほんとごめん、この埋め合わせは絶対するから。じゃあ!」ん?彩夏ちゃんが何か言いかけていた気がするが、もう僕は立ち上がっていた。
「ちょ、ちょっと!?志狼!?」
彩夏ちゃんの声を後ろに、コーヒー代をテーブルに置いて出入り口へ駆け出す。
走り出してしまったんだから仕方が無い。ドアについたカウベルの音を後ろに聞きながらともかく全力で駆ける。
…後で彩夏ちゃんのお仕置きは避けられないだろうと覚悟しながら。