黒羽


 角を曲がると鳥居が見えてきた。…あそこだ。
 四肢で地を蹴り、風と共に疾走する。我が体はまさに放たれた弾丸。自動車など簡単に抜きされる。損所そこらの人…いや犬にはこんなスピードなど出せるはずが無い。
あるじ殿は独り鳥居にもたれかかっていた。
「あるじ殿」我は呼びかける。
「ああ、ごくろうさま」全く緊張感無くのたまう。
「遅いですわよ、黒羽」憎たらしい声が聞こえる。
「何を言う、これでもかなり急いできたのだぞ」白羽は我が苦労など知らず言いたい事ばかり言う。
 あるじ殿は我が出発した時と変わらず鳥居の柱に寄りかかって先ほど解いた左手の包帯を手でぐるぐると回していた。
「それで、彩夏ちゃんは?」
「ああ、彩夏殿はあれからちゃんと喫茶店を出てご自宅へ向かわれた」
「…そうか」短く答えたままあるじ殿は沈黙する。
 普段、明るく能天気な我があるじ殿であるが故に、こうも陰鬱に沈んだあるじ殿はまるで別人だ。
 無理もない、あるじ殿はこういったいさかいごとは好まない。本当に塚上向きの性格ではない。
「じゃあ、行こうか。…僕だってあれだけ妖気を出して挑発されたんじゃ無視するわけにはいかない」あるじ殿の声は重苦しい。
「承知した」鳥居越しに石段が見える。長く続くその先に神社の本殿があるのだろう。妖気は我らを嘲笑うかのように垂れ流しになっている。木々に覆われて暗く、見るからに不気味だ。妖気に誘われてきたのか烏どもが上空をぎゃあぎゃあとわめき飛び交っているのが余計に怪しさを引き立たせている。
 あるじ殿と共に一歩ずつ石段を登っていく。…本当のところを言うと、四足ではどうにも階段と言うものは登りにくいのだが、この際仕方が無い。
 あるじ殿はずっと無言だ。こちらに越してからはとんと見ることが無かった昔の乾志狼の顔をしている。
 こんな顔のあるじ殿を見て、彩夏殿はそれが乾志狼と同一人物だと気づくだろうか。それほどまでにあるじ殿からは殺気がみなぎっていた。
 石段の終わりが見えた。入り口と同じように鳥居がそびえ立っている。その先に、男がただ独り立っていた。
「ようこソ!私の庭ヘ!」男は仰々しい手振りで我らを出迎える。髪は茶、耳だの鼻だの口だのそこら中にピアスを付けている。顔の中でひときわ大きな口がにやりと笑っている。
 この匂い…化け狐といったところか。外見は人間そのものだが獣の匂いは隠せない。
「ふざけるな!!我があるじ殿を挑発してただで済むと思うな!わざわざ来てやったのだその覚悟は出来ておろうな?」
「黒羽…」あるじ殿が制する。我は牙を剥き出し化け狐に唸りながらも一歩引く。
「…僕は出来れば戦いたくない、君の誘いに乗っては来たけど僕は余り力が強くないんだ。出来ればこのまま見逃してもらいたいな〜なんて思ってるんだけど…だめ?」にっこり笑ってあるじ殿はしれっとそんなことを言った。はぁ、我があるじながら情けないことこの上ない。
「はっはっは…何を言い出すかと思えば、見逃してくれだト!はっはっは、こりゃ傑作ダ。」よほど笑いの壺にはまったのか、狐はいつまでも笑いつづけている。
「でもだメ。俺も長く眠ってておなかペコペコなのよ。そこにちょうどあんたをを見つけてね。あんた、あの有名な『塚上』の人でショ?もうたまんないのヨ。ヒィヒィヒィ。美味しソ」
「じゃあ、交渉は決裂だ」
「へぇ、その犬が噂の犬神さんカ」
あるじ殿は右手をポケットに突っ込んだ。戦闘開始の合図だ。
「いくぞ!黒羽!」
「応!」我は黒羽。乾志狼の左腕。炎をつかさどりし狗神。


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