<2>
昔、おれがまだ幼くて、世界がまだずっとずっと広かった頃。
おれは国道を歩いて行けば東京に行けると信じていたし、隣の猫は人の言葉がわかると聞かされたって疑うことはなかった。
足には虫除けスプレー、手には虫取り網、頭にはじいちゃんからもらった古ぼけた麦藁帽子、それだけあればおれは何も恐くなかったし、どこにだって行けた。
おれは無敵だった。
空はどこまでも青く、外は海が干上がってしまいそうなほど熱く、スイカは塩がいらないくらい甘かった。
そんなどうしようもないガキの頃のはなし。
夏の昼下がり、神社の裏、蝉の声、そいつに会った。
台風が過ぎ去った翌日で外はかんかん照りだった。
おれはクッキーの缶に詰め込んだ蝉の抜け殻のコレクションが母に見つかってお目玉をくらい、怒りの収まらない母から逃げたしたところだった。
神社の裏は俺の秘密の場所だった。
小さな社は年中人気が無く、遊び場に最適だったのだ。
かんしゃく玉や、ラムネのビーダマ、お菓子のおまけのシールといった宝物を大事に縁の下に隠していた。
……なのに、俺の特等席だった神社の軒下にそいつは腰掛けていた。
セーラー服を着た髪の短い女だった。
肩に届かないほどにバッサリと切られた黒髪に、蒼い蝶の髪飾りを付けていた。
誰かを待っているように足をぶらぶらさせながら遠くを見ていたそいつは俺を見るなりにこっと笑った。
「おっす!」
そいつは立ち上がって親しげに手を上げて挨拶をした。
「……おす」
おれもつられて挨拶を返した。
俺より背が高かった。
小さいころのおれにはそいつが中学生だか高校生だかわからなかったが、俺より年上なことは確かだった。
顔を真正面から見ても見覚えが無い。
それに、何だか不思議な奴だった。
「ふんふん」
俺をじろじろと見て一言。
「なるほどねー」
と言った。
「なんだよ」
「いや、別にぃ」
その女はにやにや笑う。
なんか馬鹿にされているようで腹が立った。
せっかく、秘密の場所に来たのに……。
おれはいっそう不機嫌になった。
こんなおかしなやつはほっといて、別の場所にでも行こうと思った。
「ちょ、ちょっとぉ」
変なやつに関わっちゃいけない。
「待ってよ、草野友志くん」
「なんでなまえしってるんだよ」
「さぁ、何でだろうねぇ」
そういって女はまたくすくす笑う。
「じぶんだけ知ってるなんてずるいぞ!おまえも名をなのれよ」
「え、名前?……私の名前は……えっと……」
女は額に指を当てて何かぶつぶつ呟きながら考えた後
「秘密よ」と、不器用にウィンクして言った。
「なーにいってんだよ、いいトシして」
「む、生意気だなー。こうしてやる」
いきなり女に抱きとめられたかと思うと、頭を拳骨でぐりぐりしだした。
「いたた、いたい!いたい!」
必死に女から逃れようと身をよじった。
実は、痛いと暴れながらも、背中に感じるなんかやわらかい感触とか、髪から薫るなんかいい匂いとかにどぎまぎしていたのだ。
「じゃあ、おまえのことなんてよべばいいんだよ!」
やっと腕から抜け出して、おれは照れ隠しに女を指差して言う。
「え、えーっとね、じゃあ『お姉ちゃん』でいいよ」
「ばーか、だれがおまえなんか、ぶーす」
「ほう、そんなこと言うのはこの悪い口かな」
「いひゃい いひゃい」
口が裂けるかと思った。
「じゃあいいわ、うーんとね、……キョウでいいよ」
「ヘンななまえ」
「ふふふ」
「いひゃい いひゃい いひゃいー」
それがおれとキョウの過ごした最初で最後の日の始まりだった。
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